江戸時代の外交と
江戸時代の外交と「鎖国」 まとめ
1. ひとことで言うと
幕府が、相手・場所・方法を限って、強く管理した
江戸幕府は、キリスト教を禁じ、日本人が海外へ行くことを禁止し、来航できる外国船を限りました。しかし、外国との交流がまったくなくなったわけではありません。長崎ではオランダや中国の商人と貿易が続き、朝鮮や琉球、アイヌの人びととの関係も保たれました。幕府は、外国との関係を自分の管理のもとに置いたのです。
2. なぜ、管理を強めたのか
3. 管理が強まっていった流れ
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1612年 | 幕府の領地でキリスト教を禁じる。翌年、全国に広げる |
| 1616年 | 中国船以外の外国船が来航できる港を、平戸と長崎に限る |
| 1624年 | スペイン船の来航を禁止する |
| 1635年 | 日本人が海外へ行くことも、海外から帰国することも禁止する |
| 1637年 | 島原・天草一揆が起こる(翌年まで) |
| 1639年 | ポルトガル船の来航を禁止する |
| 1641年 | 平戸のオランダ商館を、長崎の出島に移す |
このように、管理は一度に完成したのではなく、数十年かけて少しずつ強められていきました。
4. 外国とつながっていた4つの窓口
| 場所 | 相手 | ようす |
|---|---|---|
| 長崎 | オランダ・中国 | 幕府が直接管理した。オランダ人は出島に、中国人はのちに唐人屋敷に住むことになった |
| 対馬 | 朝鮮 | 対馬の宗氏が、朝鮮との外交や貿易を担った。朝鮮からは、将軍が代わったときなどに通信使が江戸へ来た |
| 薩摩 | 琉球 | 1609年、薩摩の島津氏が琉球に攻めこみ、支配下に置いた。琉球は中国との関係も続けていた |
| 松前 | アイヌ | 蝦夷地の松前氏が、アイヌの人びととの交易をにぎった。1669年には、シャクシャインを中心とするアイヌの人びとが立ち上がった |
この4か所を「四つの口」とよぶことがあります。ただし、関係の形はそれぞれちがい、対等な国どうしの外交もあれば、支配や交易の独占をともなう関係もありました。
5. 海外の情報は入っていた
オランダ船が長崎に来るたびに、幕府は海外のできごとをまとめた報告書(オランダ風説書)を提出させました。幕府は、ヨーロッパやアジアのようすを知ることができたのです。18世紀になると、オランダ語の書物を通じて西洋の学問を学ぶ人びとも現れました。1分でわかる江戸の学問儒学・国学・蘭学
6. 「鎖国」ということば
「鎖国」ということばは、江戸時代のはじめに幕府が使っていたものではありません。1801年、長崎のオランダ通詞だった志筑忠雄が、ドイツ人ケンペルの書いた日本についての本の一部を翻訳し、『鎖国論』と名づけたことから、のちに広まったとされます。
7. まちがえやすいところ
- 江戸時代の日本は、外国と完全に交流を断っていたのではない。オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌとの関係があった。
- ただし、交流が自由だったのでもない。日本人の海外渡航は禁じられ、相手や場所は限られていた。
- 「鎖国」は、当時の法令の名前ではない。1801年の『鎖国論』から広まったことば。
- 管理は、一度に完成したのではない。1610年代から1640年ごろにかけて、少しずつ強められた。
8. 1分で深掘り
19世紀になると、ロシアやイギリスなどの船が日本の近くに現れ、幕府の対外政策はむずかしくなっていきます。1分でわかる江戸社会の変化外国船の接近から幕末へ
← 江戸時代にもどる関連テーマ:出島/オランダ風説書/朝鮮通信使/琉球王国/アイヌ
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