江戸時代の外交と「鎖国」

1分でわかる

江戸時代の外交と「鎖国」

17世紀前半〜19世紀前半
江戸時代の日本は、本当に外国との交流を断っていたのか。幕府が外国との関係をどう管理したのかを見ていきます。
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1分でわかる歴史江戸時代

江戸時代の外交と「鎖国」 まとめ

1. ひとことで言うと

外国との交流は、なくならなかった。
幕府が、相手・場所・方法を限って、強く管理した

江戸幕府は、キリスト教を禁じ、日本人が海外へ行くことを禁止し、来航できる外国船を限りました。しかし、外国との交流がまったくなくなったわけではありません。長崎ではオランダや中国の商人と貿易が続き、朝鮮や琉球、アイヌの人びととの関係も保たれました。幕府は、外国との関係を自分の管理のもとに置いたのです。

2. なぜ、管理を強めたのか

キリスト教を禁じるため幕府は、キリスト教の信者が団結して幕府に従わなくなることなどをおそれ、キリスト教を禁じました。宣教師を送りこむスペインやポルトガルとの関係を見直していきます。
貿易と情報を幕府がにぎるため西日本の大名が外国との貿易で力をつけることを防ぎ、貿易の利益や海外の情報を幕府のもとに集める意味もあったと考えられています。

3. 管理が強まっていった流れ

年できごと
1612年幕府の領地でキリスト教を禁じる。翌年、全国に広げる
1616年中国船以外の外国船が来航できる港を、平戸と長崎に限る
1624年スペイン船の来航を禁止する
1635年日本人が海外へ行くことも、海外から帰国することも禁止する
1637年島原・天草一揆が起こる(翌年まで)
1639年ポルトガル船の来航を禁止する
1641年平戸のオランダ商館を、長崎の出島に移す
島原・天草一揆九州の島原と天草で、重い年貢や、キリスト教の信者への取りしまりに苦しんだ人びとが立ち上がりました。幕府は大軍を送ってこれをしずめ、この一揆のあと、キリスト教への警戒をさらに強めました。

このように、管理は一度に完成したのではなく、数十年かけて少しずつ強められていきました。

4. 外国とつながっていた4つの窓口

場所相手ようす
長崎オランダ・中国幕府が直接管理した。オランダ人は出島に、中国人はのちに唐人屋敷に住むことになった
対馬朝鮮対馬の宗氏が、朝鮮との外交や貿易を担った。朝鮮からは、将軍が代わったときなどに通信使が江戸へ来た
薩摩琉球1609年、薩摩の島津氏が琉球に攻めこみ、支配下に置いた。琉球は中国との関係も続けていた
松前アイヌ蝦夷地の松前氏が、アイヌの人びととの交易をにぎった。1669年には、シャクシャインを中心とするアイヌの人びとが立ち上がった

この4か所を「四つの口」とよぶことがあります。ただし、関係の形はそれぞれちがい、対等な国どうしの外交もあれば、支配や交易の独占をともなう関係もありました。

5. 海外の情報は入っていた

オランダ船が長崎に来るたびに、幕府は海外のできごとをまとめた報告書(オランダ風説書)を提出させました。幕府は、ヨーロッパやアジアのようすを知ることができたのです。18世紀になると、オランダ語の書物を通じて西洋の学問を学ぶ人びとも現れました。1分でわかる江戸の学問儒学・国学・蘭学

6. 「鎖国」ということば

「鎖国」ということばは、江戸時代のはじめに幕府が使っていたものではありません。1801年、長崎のオランダ通詞だった志筑忠雄が、ドイツ人ケンペルの書いた日本についての本の一部を翻訳し、『鎖国論』と名づけたことから、のちに広まったとされます。

どう考えればよい?江戸時代の日本は、外国との関係を強く制限していました。その意味で「鎖国」ということばが使われてきました。一方で、交流がまったくなかったのではなく、幕府が相手・場所・方法を管理していたことにも目を向けることが大切です。

7. まちがえやすいところ

  • 江戸時代の日本は、外国と完全に交流を断っていたのではない。オランダ・中国・朝鮮・琉球・アイヌとの関係があった。
  • ただし、交流が自由だったのでもない。日本人の海外渡航は禁じられ、相手や場所は限られていた。
  • 「鎖国」は、当時の法令の名前ではない。1801年の『鎖国論』から広まったことば。
  • 管理は、一度に完成したのではない。1610年代から1640年ごろにかけて、少しずつ強められた。

8. 1分で深掘り

19世紀になると、ロシアやイギリスなどの船が日本の近くに現れ、幕府の対外政策はむずかしくなっていきます。1分でわかる江戸社会の変化外国船の接近から幕末へ

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関連テーマ:出島/オランダ風説書/朝鮮通信使/琉球王国/アイヌ

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