幕府の改革|なぜ何度も改革した?
幕府の改革 まとめ
1. ひとことで言うと
その問題に、幕府は時代ごとにちがうやり方で向き合った
幕府の収入は、百姓が米で納める年貢が中心でした。しかし、商業が発達し、お金で物を買う経済が広がると、米の値段と物の値段のずれや、出費の増加などから、幕府の財政は苦しくなっていきます。そこに飢饉や社会の不安が重なり、幕府はそのたびに改革を行いました。改革の中身は、そのときの問題や、中心となった人物の考え方によって大きくちがいました。
2. 改革の根っこにあった問題
3. 4つの改革と政治
| 改革 | 中心人物 | 主なやり方 | その後 |
|---|---|---|---|
| 享保の改革18世紀前半 | 8代将軍 徳川吉宗 | 倹約をすすめ、新田開発や年貢の取り立ての強化で収入を増やした。大名に米を納めさせるかわりに江戸にいる期間を短くした(上げ米)。裁判の基準(公事方御定書)を定め、目安箱を置いた | 財政は一時立ち直ったが、年貢の負担が重くなり、一揆も起こった |
| 田沼の政治18世紀後半 | 老中 田沼意次 | 商業の力を生かそうとした。株仲間を認めて税を納めさせ、長崎貿易で輸出を増やそうとし、蝦夷地の調査や干拓も計画した | わいろが広がったと批判された。天明の飢饉や打ちこわしが起こる中で、力を失った |
| 寛政の改革18世紀末 | 老中 松平定信 | 倹約を強く求め、飢饉に備えて米をたくわえさせた。旗本や御家人の借金を帳消しにし、学問や出版も統制した | 厳しすぎるとして反発も受け、数年で定信は老中をしりぞいた |
| 天保の改革19世紀前半 | 老中 水野忠邦 | 厳しい倹約令を出し、物価を下げようとして株仲間を解散させた。江戸や大坂の周りの土地を幕府の領地にしようとした(上知令) | 大名や旗本の強い反対で上知令は実行できず、忠邦は約2年で老中をしりぞいた |
享保・寛政・天保の3つを「三大改革」とよぶことがあります。ただし、大切なのは名前を覚えることよりも、それぞれがどんな問題に、どう向き合ったかを見ることです。
4. 2つの方向
改革のやり方には、大きく分けて2つの方向がありました。
ただし、一つの改革がどちらか一方だけだったのではありません。吉宗も新田開発を進める一方で、米の値段の調整や商人の仲間の公認に取り組みました。
5. 人物を、善と悪で分けない
田沼意次は、長いあいだ「わいろ政治の悪者」として語られてきました。しかし近年は、商業を生かそうとした新しい政策を評価する見方もあります。一方、松平定信や水野忠邦の改革は、財政や社会を立て直そうとしたものでしたが、厳しい統制が人びとの反発を招きました。
6. 藩でも改革が行われた
財政の苦しさは、幕府だけでなく、多くの藩にも共通する問題でした。藩でも、特産物をつくって売ったり、借金を整理したりする改革が行われ、成功して力をたくわえた藩もありました。こうした藩は、のちの幕末の動きの中で大きな役割を果たすことになります。
7. まちがえやすいところ
- 改革は、ただの名前の暗記ではない。米の財政とお金の経済のずれという、共通の問題があった。
- 田沼意次を、悪者だけとして見ない。商業を生かそうとした政策として評価する見方もある。
- 改革は、すべて成功したのでも、すべて失敗したのでもない。効果が出た点と、反発を受けた点の両方がある。
- 財政に苦しんだのは、幕府だけではない。多くの藩も改革を行った。
8. 1分で深掘り
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