ペリー来航と開国
ペリー来航と開国 まとめ
1. ひとことで言うと
幕府は大名たちにも意見を聞き、翌年、日米和親条約を結んで開国した
ペリーの艦隊は、江戸に近い浦賀の沖に現れ、アメリカ大統領の国書を幕府に渡しました。幕府は、国書を翻訳して大名たちに示し、意見を求めます。翌年、再び来航したペリーと交渉し、下田と箱館の2つの港を開くことなどを定めた日米和親条約を結びました。これにより、それまで続いてきた外国との関係を限る体制は、大きく変わることになります。
2. ペリーの前から、外国船は来ていた
18世紀の終わりから、ロシアやイギリスなどの船が日本の近くに現れていました。幕府は外国船を打ち払う方針をとったこともありましたが、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、1842年、外国船に燃料や水を与えて帰らせる方針に改めます。オランダからは、開国をすすめる国王の手紙も届いていました。ペリーの来航は、こうした長い流れの中で起きたできごとです。1分でわかる江戸社会の変化外国船の接近
3. アメリカは、なぜ日本に来たのか
アメリカは、清(中国)との貿易や、太平洋での捕鯨のために、船が水や燃料を補給できる港を必要としていました。その中継地として、日本の港を開かせようと考えたのです。
4. ペリー来航と幕府の対応
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1853年6月 | ペリーが4隻の軍艦で浦賀沖に来航し、大統領フィルモアの国書を渡す。返事は翌年と約束して去る |
| 1853年 | 老中の阿部正弘が、国書の翻訳を大名たちに示して意見を求める。江戸湾の守りも固め始める |
| 1854年1月 | ペリーが艦隊を増やして再び来航する。横浜村で交渉が始まる |
| 1854年3月 | 日米和親条約を結ぶ |
5. 日米和親条約で決まったこと
| 項目 | 中身 |
|---|---|
| 港を開く | 下田と箱館(今の函館)の2つの港を開く |
| 補給 | アメリカの船に、燃料や水、食料などを与える |
| 領事 | アメリカの役人(領事)が、下田に住むことを認める |
この条約には、自由な貿易は含まれていませんでした。貿易が本格的に始まるのは、1858年の通商条約のあとです。幕府は、アメリカに続いて、イギリス、ロシア、オランダとも同じような条約を結びました。
6. 幕府は、なぜ開国を決めたのか
ただし、この決定には国内に反対も多く、外国との関係をどうするかは、その後の政治の大きな対立点になっていきます。1分でわかる江戸時代の外交と「鎖国」それまでの外交の仕組み
7. まちがえやすいところ
- 黒船に脅されて、幕府がすぐに降伏したのではない。大名たちに意見を聞き、交渉して条件を決めた。
- 日米和親条約で、貿易が始まったのではない。貿易は1858年の通商条約から。
- 外国船が来たのは、ペリーが最初ではない。18世紀の終わりから、ロシアやイギリスの船が来ていた。
- 開国を決めたあとも、国内の意見はまとまっていなかった。このことが、次の政治対立につながる。
8. 1分で深掘り
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