大政奉還と王政復古
大政奉還と王政復古 まとめ
1. ひとことで言うと
12月、朝廷の側が幕府そのものの廃止と新政府の成立を宣言した(王政復古)
1867年10月、徳川慶喜は政権を朝廷に返すことを申し出て、朝廷はこれを認めました。しかし、慶喜はその後も広い領地と軍事力をもち、新しい政治の中でも大きな力を保とうとしていました。これに対し、薩摩藩や公家の岩倉具視らは、12月に王政復古の大号令を出させ、幕府を廃止して天皇のもとに新しい政府をつくることを宣言します。徳川家の扱いをめぐる対立は、翌年の戦争へとつながっていきました。
2. 大政奉還までの動き
1867年、薩摩藩と長州藩は、武力で幕府を倒す準備を進めていました。一方、土佐藩では、後藤象二郎らが前藩主の山内容堂(豊信)に、将軍が自ら政権を朝廷に返し、大名たちが話し合って政治を進める形(公議政体)をとるよう進言しました。容堂はこの考えを受け入れ、10月3日、慶喜に大政奉還をすすめる意見書を出します。
3. 大政奉還(1867年10月)
10月13日、慶喜は京都の二条城に諸藩の重臣を集めて考えを示し、翌14日、政権を朝廷に返すことを申し出ました。朝廷は15日にこれを認めます。同じころ、薩摩と長州には、幕府を討つよう命じる天皇の命令(討幕の密勅)が下されたとされていますが、大政奉還によって、武力で幕府を倒す計画はいったん行き場を失いました。
4. 王政復古の大号令(1867年12月)
12月9日、薩摩藩などの兵が御所の門を固める中で、王政復古の大号令が出されました。「神武天皇が国を始めたころ」にもどるとして、幕府だけでなく、摂政・関白などの朝廷の古い役職も廃止し、新たに総裁・議定・参与の三つの職(三職)を置くことが定められました。
同じ日の夜、天皇の前で開かれた会議(小御所会議)で、慶喜に官職を辞めさせ、領地の一部を朝廷に返させること(辞官納地)が決められました。慶喜の政治への参加を認めるかどうかをめぐって、会議では激しい議論がありました。
5. 大政奉還と王政復古のちがい
| くらべる点 | 大政奉還 | 王政復古 |
|---|---|---|
| いつ | 1867年10月 | 1867年12月 |
| だれが | 将軍の徳川慶喜が申し出た | 薩摩藩や岩倉具視らが中心となり、朝廷から出させた |
| 何をした | 政権を朝廷に返す | 幕府と摂政・関白を廃止し、新しい政府の仕組み(三職)をつくる |
| 徳川家は | 大きな領地と力を保ち、新しい政治での主導権を考えていた | 新政府から外され、官職と領地の返上を求められた |
6. その後
辞官納地の決定に、旧幕府側の人びとは強く反発しました。慶喜は京都を離れて大坂城に移り、新政府と旧幕府側の緊張は高まっていきます。翌1868年1月、両者は京都の南の鳥羽・伏見で武力衝突しました。1分でわかる戊辰戦争京都から箱館まで続いた戦い
7. まちがえやすいところ
- 大政奉還で、徳川家の力がなくなったのではない。慶喜は、その後も広い領地と軍事力をもっていた。
- 大政奉還の瞬間に、明治政府が完成したのではない。新政府の成立が宣言されたのは、12月の王政復古。
- 大政奉還と王政復古は、同じことではない。政権を返したのが大政奉還、幕府を廃止して新政府をつくったのが王政復古。
- 大政奉還は、坂本龍馬一人が実現したのではない。土佐藩の建白と慶喜の判断によるもの。
8. 1分で深掘り
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