薩摩と長州|なぜ倒幕側へ近づいたのか
薩摩と長州 まとめ
1. ひとことで言うと
外国との戦いや京都での争いを経て方針が変わり、両藩は幕府に対抗する立場へ近づいていった
1860年代のはじめ、薩摩と長州は、同じ方向を向いていたわけではありません。1863〜1864年には、京都で両藩が敵対し、実際に戦ってもいます。しかし、外国との戦い、京都での主導権争い、幕府の長州攻めなどを経験する中で、両藩の考えは少しずつ変わっていきました。どちらも、最初から幕府を倒すことを目標にしていたのではありません。
2. 二つの藩の歩み
| 時期 | 長州 | 薩摩 |
|---|---|---|
| 1862年 | 藩の方針を攘夷に定め、京都で急進的な公家と結びつく | 島津久光が京都・江戸へ上り、朝廷と幕府の協力による改革を進める。帰り道で生麦事件が起こる |
| 1863年 | 下関海峡で外国船を砲撃する。八月十八日の政変で京都から追い出される | イギリスと薩英戦争を戦う。会津藩とともに長州を京都から追い出す |
| 1864年 | 京都へ兵を進めて敗れる(禁門の変)。幕府の長州攻め(第一次長州征討)を受けて謝罪する。四国艦隊に下関を攻撃される | 禁門の変では幕府側で長州と戦う。第一次長州征討では、西郷隆盛が交渉にあたり、戦わずに収める |
| 1865年ごろ | 高杉晋作らが藩の主導権をにぎり、幕府に従うだけではない方針へ転換する。軍の西洋化を進める | 朝廷と幕府の協力で改革する道が行きづまる。幕府の力に見切りをつけ、長州への協力に動き始める |
| 1866年 | 薩摩と約束を結び、幕府の第二次長州征討を戦う | 第二次長州征討への出兵を断る |
3. 長州:攘夷の実行から、方針の転換へ
1863年5月、攘夷の期限の日に、長州藩は下関海峡を通るアメリカの商船を砲撃し、続けてフランスやオランダの船も攻撃しました。これに対し、アメリカとフランスの軍艦が報復し、長州の砲台や軍艦に大きな被害が出ます。
その後、長州は八月十八日の政変で京都を追われ、1864年には京都の御所の近くで幕府側と戦って敗れました(禁門の変)。御所に向けて攻めこんだ長州は「朝廷の敵」とされ、幕府は諸藩に長州攻めを命じます。同じ年、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国艦隊が下関の砲台を攻撃し、占領しました。
4. 薩摩:公武合体から、幕府と距離をおく立場へ
1862年、島津久光の行列を横切ったイギリス人を薩摩藩士が殺傷する生麦事件が起こりました。イギリスは幕府と薩摩藩に謝罪と賠償を求め、幕府は応じましたが、薩摩藩は拒みます。1863年7月、イギリスの艦隊が鹿児島湾に来て、薩英戦争が起こりました。鹿児島の町や工場は大きな被害を受けました。
薩摩はその後、イギリスと和解し、関係を深めて、留学生を送るなど近代化を進めます。京都では、会津藩とともに長州を追い出すなど、朝廷と幕府の協力を支える立場で動きました。しかし、幕府中心の改革がなかなか進まない中で、薩摩は幕府と距離をおくようになっていきます。
5. 外国との戦いは、何を変えたのか
薩英戦争や下関での戦いは、欧米の軍事力の強さを知る機会になりました。どちらの藩も、その後、西洋式の軍備を整え、欧米、特にイギリスとの関係を深めていきます。
6. まちがえやすいところ
- 薩摩と長州は、最初から仲間だったのではない。1863〜1864年には、京都で敵対していた。
- 両藩とも、最初から倒幕をめざしたのではない。方針は、事件や藩内の争いの中で変わった。
- 外国との戦いの結果は、一本道ではない。軍備の近代化、外国との関係、国内の対立が重なった。
- 藩の方針は、一人の人物だけで決まったのではない。藩内の対立や話し合いを経て変わった。
7. 1分で深掘り
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