55年体制と安保闘争
55年体制と安保闘争 まとめ
1. ひとことで言うと
自民党が政権を担い、社会党が最大野党という構図が長く続いた。これを55年体制とよぶ
講和のあと、日本の政治では、憲法や安全保障、基地をどう考えるかが大きな対立軸になりました。1955年10月に左右に分かれていた日本社会党が統一し、これに対抗する形で11月に自由党と日本民主党が合同して自由民主党が結成されます。以後、自民党が政権を担い、社会党が最大野党という構図が続きました。1960年、安保条約の改定をめぐって国会の内外で大きな対立が起こります。
2. 55年体制とは何か
| 要素 | 中身 |
|---|---|
| 与党 | 自由民主党が長く政権を担った。党内にはいくつもの派閥があり、総裁選びを通じて首相が交代した |
| 最大野党 | 日本社会党。議席では自民党の半分程度にとどまることが多かった |
| 対立軸 | 憲法改正の可否、安全保障と基地、自衛隊の位置づけなどをめぐる対立 |
| ほかの政党 | 日本共産党のほか、1960年代には民社党や公明党も生まれ、野党は分かれていった |
「自民党が永久に支配する制度」ではありません。実際には選挙が行われ、議席は変動し、この構図も昭和が終わったあとに変わります。ここでは、昭和の後半に長く続いた構図としてとらえてください。
3. 安保条約の改定(1960年)
1951年の日米安全保障条約は、日本が基地を提供する一方、アメリカが日本を守る義務を定めていない片務的な内容でした。岸信介内閣はこれを改め、より対等な形にすることを目指します。
1960年1月19日、新しい条約「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約」が調印され、同年6月23日に発効しました。
| くらべる点 | 1951年の条約 | 1960年の条約 |
|---|---|---|
| アメリカの義務 | 日本を防衛する義務は規定されていない | 外部からの武力攻撃に対して日本を防衛する義務を明記 |
| 日本の義務 | 基地の提供 | 日本の施政下の領域で米軍が攻撃された場合に防衛する義務も規定 |
| 性格 | 片務的 | 平等相互の援助条約とされた |
| その他 | 期限などの定めが弱い | 経済協力の規定や、条約の期限に関する定めが置かれた |
4. 安保闘争
条約の内容が対等に近づいた一方で、改定そのものに強い反対の声が上がりました。理由は一つではありません。アメリカの戦争に巻きこまれるのではないかという不安、基地が続くことへの反発、そして国会での進め方への批判が重なります。
1960年5月、衆議院で採決が強行されると、反対の動きは一気に広がりました。労働組合、学生の団体、市民、研究者、文化人などが加わり、国会の周辺には連日多くの人が集まります。デモの中で東京大学の学生が亡くなる事態も起きました。条約は参議院の議決を経ないまま6月19日に自然承認され、発効します。岸首相は混乱の責任をとる形で退陣しました。
次の池田勇人内閣は、政治的な対立を正面から続けるのではなく、経済成長を前面に出す方向へかじを切りました。1分でわかる高度経済成長所得倍増計画へ
5. 55年体制のもとで起きたこと
この構図のもとで、日本は高度経済成長、公害への対応、沖縄返還、日中国交正常化などの課題に取り組みました。政権が長く続いたことで政策が安定した面もあれば、党内の派閥争いや、政治と企業の結びつきをめぐる問題が生じた面もあります。
どちらを重く見るかは評価の分かれるところです。1MINでは、この時期にどの政党がどの位置にいて、どんな決定が行われたのかを確認するにとどめます。
6. まちがえやすいところ
- 55年体制は制度の名前ではない。1955年からの政党の配置と政治の構図を指す言い方。
- 1960年に安保条約が初めて結ばれたのではない。1951年の条約を改定したもの。
- 安保闘争は一つの主張の運動ではない。条約への反対、国会運営への批判など理由はさまざまだった。
- 反対運動で条約が止まったのではない。条約は成立し、発効している。
7. 1分で深掘り
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