円高とバブル、昭和の終わり
円高とバブル、昭和の終わり まとめ
1. ひとことで言うと
急な円高への対策が重なるうちに、土地と株の値段が実体からはなれて上がっていった
1980年代、日本は自動車や電気製品の輸出を伸ばし、アメリカなどとの間で貿易摩擦が深刻になります。1985年9月22日のプラザ合意でドル高の是正に踏み切ると、円高が急速に進み、輸出産業が打撃を受けました。その対策として金利が下げられ、内需の拡大がはかられます。やがて資産の値段が上がり続ける状態になりました。そして1989年1月7日、昭和が終わります。
2. 貿易摩擦
石油危機のあとも、日本の自動車・電気製品・半導体などの輸出は伸び続けました。輸入より輸出が大きく上回る状態が続き、相手国では工場の閉鎖や失業が問題になります。
- 自動車1981年から、日本側が対米輸出の自主規制を行った。
- 現地生産摩擦をやわらげるため、日本企業が海外に工場を建てる動きが進んだ。
- 半導体・農産物半導体や、牛肉・オレンジなどの市場開放をめぐる交渉も続いた。
- 為替ドルが高く円が安いことが、日本の輸出を後押ししているという指摘が強まった。
3. プラザ合意と円高(1985年)
1985年9月22日、ニューヨークで日本・アメリカ・イギリス・フランス・西ドイツの5か国(G5)の大蔵大臣と中央銀行総裁が集まり、ドルに対する各国通貨の秩序ある上昇が望ましいとして、協力することで合意しました。これをプラザ合意とよびます。
| 時点 | 円相場のめやす |
|---|---|
| 合意の直前 | 1ドル=240円前後 |
| 1か月後 | 1ドル=210円台 |
| 2か月後 | 1ドル=200円台 |
急な円高で輸出品の値段は現地で上がり、輸出に頼る産業や下請けの工場は苦しくなりました。これを円高不況といいます。
4. なぜ資産の値段が上がり続けたのか
- 低い金利円高不況への対応として、公定歩合は1986年1月から1987年2月までに5回引き下げられ、当時としては最低の2.5%になった。
- 財政による下支え内需の拡大をはかる経済対策や、公共投資が行われた。
- 金融の自由化規制がゆるみ、銀行が貸出先を求めて競争した。担保となる土地への融資が伸びた。
- 土地は下がらないという見方これまで地価は上がり続けてきたのだから今後も上がる、という考えが広く共有されていた。
- 企業の資金運用本業以外に、株式や土地で利益を得ようとする動きが広がった。
- 物価が落ち着いていた円高で輸入品が安くなり、消費者物価は安定していたため、金融をひきしめる判断が遅れた。
東京の地価が上がると周辺へ、さらに地方へと波及し、株価も上がり続けました。上がるから買い、買うから上がる、という循環です。
5. 1980年代の社会
| できごと | 内容 |
|---|---|
| 行財政改革 | 1985年に日本電信電話公社がNTTに、日本専売公社がJTになり、1987年4月1日には日本国有鉄道が分割され、JR各社が発足した |
| 働く女性 | 1985年に男女雇用機会均等法が成立し、翌1986年4月に施行された。募集・採用や配置・昇進での取り扱いが定められた |
| 税制 | 1988年12月に消費税法が成立した。実際に税が実施されたのは昭和が終わったあとである |
| 暮らし | コンビニエンスストアや家庭用ゲーム機、携帯できる音楽プレーヤーなどが広まり、消費の形が変わった |
6. 昭和の終わり
1989年1月7日、昭和天皇が亡くなり、昭和は64年で終わりました。昭和元年は1926年12月ですから、64年といっても最初と最後の年はごく短く、実質的には62年あまりです。
この時代には、恐慌、戦争、占領、復興、成長、公害、石油危機、そして資産価格の高騰までが含まれています。一人の人が子どもから高齢になるまでの間に、社会の形が何度も変わった時代でした。
7. まちがえやすいところ
- プラザ合意がバブルを起こしたのではない。低金利、財政、金融自由化、地価への見方などが重なった。
- 円高は良いことも悪いこともある。輸出産業は苦しみ、輸入品や海外旅行は安くなった。
- バブルの時期に全員が得をしたのではない。地価の上昇で家を買えなくなった人も多かった。
- 昭和は1989年1月7日に終わる。そのあとの出来事を昭和の話として書かない。
8. 1分で深掘り
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1分でわかる石油危機と安定成長円高の前に何があったか 1分でわかる高度経済成長成長の始まり ← 昭和・戦後にもどる関連テーマ:貿易摩擦/輸出自主規制/プラザ合意/G5/円高不況/公定歩合/内需拡大/地価/株価/国鉄分割民営化/男女雇用機会均等法/消費税法/1989年1月7日
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