東京裁判と戦後処理
東京裁判と戦後処理 まとめ
1. ひとことで言うと
ただし戦争の後始末は裁判だけで終わらず、条約や協定による処理がその後も続いた
1946年から1948年にかけて、極東国際軍事裁判(東京裁判)が開かれました。日本の戦争指導に関わったとされる人びとが起訴され、判決が出されます。同じ時期、アジア各地では別の裁判も開かれ、公職追放も行われました。一方、国と国との賠償や請求権の問題は、1951年のサンフランシスコ平和条約と、その後の二国間の条約・協定で扱われていきます。
2. 極東国際軍事裁判(東京裁判)
戦後、連合国は日本人の重大な戦争犯罪人を裁くための裁判所を設置しました。これが極東国際軍事裁判所です。裁判は1946年5月に始まり、1948年11月に判決が言い渡されました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 場所と期間 | 東京。1946年から1948年まで |
| 裁いた側 | 連合国。11か国の判事で構成された |
| 起訴された人 | 28名が、平和に対する罪や人道に対する罪などにより起訴された |
| 判決 | 病死または免訴となった者以外の25名が有罪判決を受けた |
有罪とされた人のうち、東条英機ら7名が死刑となり、1948年12月に執行されました。
3. A級・B級・C級のちがい
| 区分 | 何を問うものか |
|---|---|
| A(平和に対する罪) | 侵略戦争を計画し、準備し、始め、遂行したこと。主に政府や軍の指導的な地位にあった人が対象になった |
| B(通例の戦争犯罪) | 捕虜の虐待や殺害、民間人への不法な行為など、戦争の法規や慣例に反する行為 |
| C(人道に対する罪) | 一般の住民に対する殺害、迫害などの非人道的な行為 |
東京裁判はAの罪を中心に指導者を裁きました。一方、B・Cにあたる行為については、アジア・太平洋の各地に設けられた裁判で、現場の軍人や軍属が裁かれています。その中には、日本の植民地とされた朝鮮や台湾の出身で、日本軍の軍属として捕虜の監視などにあたり、有罪とされた人も含まれていました。
4. 裁判をめぐる議論
東京裁判については、開かれた当時から現在まで、さまざまな議論があります。
- 法的な根拠「平和に対する罪」は、戦争の前には明確な国際法として定まっていなかったのではないか、という指摘(事後法の問題)。
- 裁く側勝った側だけが裁き、連合国側の行為は裁かれなかったのではないか、という指摘。
- 個人の責任国家が行った戦争について、個人をどこまで裁けるのかという論点。
- 意義侵略戦争と非人道的な行為を国際的に裁いた前例として、その後の国際法につながったという評価。
5. 公職追放
裁判とは別に、戦争に協力したとされる人びとを公の職から退かせる公職追放が行われました。政治家、軍人、官僚、企業や言論の関係者など、対象は広い範囲に及びます。
ただし、冷戦が深まると方針は変わり、1950年代に入ると多くの人の追放が解除されました。逆に、共産主義の影響を受けたとされる人びとを職場から排除する動き(レッドパージ)が起こります。だれを公職から遠ざけるかという基準そのものが、国際情勢の中で変わっていきました。
6. 戦後処理は裁判で終わらなかった
戦争によって生じた賠償や、財産・請求権の問題は、裁判ではなく条約で処理されました。日本は関係国との間で、サンフランシスコ平和条約や二国間の平和条約・協定を結び、それらにしたがって賠償の支払いなどを行っています。
たとえばフィリピンやビルマ、インドネシア、ベトナムなどに対する賠償、在外財産の放棄、捕虜への償いなどが、条約にもとづいて処理されました。また、韓国とは1965年の条約と協定、中国とは1972年の共同声明という形で、それぞれ別の道すじをたどります。1分でわかる沖縄返還と戦後外交近隣国との関係の作り直し
7. まちがえやすいところ
- A級・B級・C級は、罪の重さの順ではない。起訴の根拠となった犯罪の種類を表す記号。
- 東京裁判ですべての戦争犯罪が裁かれたのではない。各地でB・C級の裁判が別に開かれた。
- 戦後処理は裁判で完了したのではない。賠償や請求権は条約と協定で処理された。
- 公職追放の基準は固定ではなかった。冷戦の中で解除が進み、別の排除も起きた。
8. 1分で深掘り
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