ペリー来航と開国

1分でわかる

ペリー来航と開国

1853年〜1854年
200年以上続けてきた外国との関係の仕組みを、幕府はなぜ変えたのか。ペリー来航から日米和親条約までを見ていきます。
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1分でわかる歴史幕末

ペリー来航と開国 まとめ

1. ひとことで言うと

1853年、アメリカのペリーが来航し、開国を求める大統領の手紙を渡した。
幕府は大名たちにも意見を聞き、翌年、日米和親条約を結んで開国した

ペリーの艦隊は、江戸に近い浦賀の沖に現れ、アメリカ大統領の国書を幕府に渡しました。幕府は、国書を翻訳して大名たちに示し、意見を求めます。翌年、再び来航したペリーと交渉し、下田と箱館の2つの港を開くことなどを定めた日米和親条約を結びました。これにより、それまで続いてきた外国との関係を限る体制は、大きく変わることになります。

2. ペリーの前から、外国船は来ていた

18世紀の終わりから、ロシアやイギリスなどの船が日本の近くに現れていました。幕府は外国船を打ち払う方針をとったこともありましたが、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、1842年、外国船に燃料や水を与えて帰らせる方針に改めます。オランダからは、開国をすすめる国王の手紙も届いていました。ペリーの来航は、こうした長い流れの中で起きたできごとです。1分でわかる江戸社会の変化外国船の接近

3. アメリカは、なぜ日本に来たのか

アメリカは、清(中国)との貿易や、太平洋での捕鯨のために、船が水や燃料を補給できる港を必要としていました。その中継地として、日本の港を開かせようと考えたのです。

4. ペリー来航と幕府の対応

年できごと
1853年6月ペリーが4隻の軍艦で浦賀沖に来航し、大統領フィルモアの国書を渡す。返事は翌年と約束して去る
1853年老中の阿部正弘が、国書の翻訳を大名たちに示して意見を求める。江戸湾の守りも固め始める
1854年1月ペリーが艦隊を増やして再び来航する。横浜村で交渉が始まる
1854年3月日米和親条約を結ぶ
大名たちに意見を聞いた意味幕府はそれまで、外交を自分たちだけで決めてきました。ペリー来航のとき、親藩や外様の大名にも意見を求めたことで、有力な大名たちが国の政治に意見を出すようになります。大名たちの意見は、開国に賛成するものと反対するものに分かれ、まとまりませんでした。

5. 日米和親条約で決まったこと

項目中身
港を開く下田と箱館(今の函館)の2つの港を開く
補給アメリカの船に、燃料や水、食料などを与える
領事アメリカの役人(領事)が、下田に住むことを認める

この条約には、自由な貿易は含まれていませんでした。貿易が本格的に始まるのは、1858年の通商条約のあとです。幕府は、アメリカに続いて、イギリス、ロシア、オランダとも同じような条約を結びました。

6. 幕府は、なぜ開国を決めたのか

戦えば勝てないという判断幕府は、アヘン戦争で清が敗れたことなどから、欧米の軍事力の強さを知っていました。戦争になれば、大きな被害が出ると考えたのです。
交渉で条件を限る幕府は、港を2つに限り、貿易を認めない形で条約をまとめました。圧力を受けながらも、できるだけ条件を抑えようとして交渉したのです。

ただし、この決定には国内に反対も多く、外国との関係をどうするかは、その後の政治の大きな対立点になっていきます。1分でわかる江戸時代の外交と「鎖国」それまでの外交の仕組み

7. まちがえやすいところ

  • 黒船に脅されて、幕府がすぐに降伏したのではない。大名たちに意見を聞き、交渉して条件を決めた。
  • 日米和親条約で、貿易が始まったのではない。貿易は1858年の通商条約から。
  • 外国船が来たのは、ペリーが最初ではない。18世紀の終わりから、ロシアやイギリスの船が来ていた。
  • 開国を決めたあとも、国内の意見はまとまっていなかった。このことが、次の政治対立につながる。

8. 1分で深掘り

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関連テーマ:ペリー/フィルモア/阿部正弘/浦賀/下田/箱館/台場

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