金融恐慌と昭和恐慌

1分でわかる

金融恐慌と昭和恐慌

1927年〜1930年代前半
昭和の初め、なぜ暮らしは急に苦しくなったのか。名前の似た三つの恐慌を、原因と影響に分けて見ていきます。
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1分でわかる歴史昭和・戦前戦中

金融恐慌と昭和恐慌 まとめ

1. ひとことで言うと

まず銀行の信用が崩れ、次に世界の景気が落ちこみ、その影響が日本の物価と農村を直撃した。
三つは別のできごとで、重なって暮らしを苦しくした

大正の戦後恐慌と関東大震災のあと、日本経済は慢性的な不況の中にありました。1927年、大蔵大臣の議会での発言をきっかけに銀行に預金者が押しかけ、金融恐慌が起こります。続いて1929年にアメリカから世界恐慌が始まり、同じころ日本は金輸出解禁という政策をとっていたため、輸出は大きな打撃を受けました。生糸と米の値段が暴落し、農村の生活が行きづまります。これが昭和恐慌です。

2. 三つの恐慌のちがい

名前いつ何が起きたか
金融恐慌1927年銀行の経営不安から取り付けが広がり、休業する銀行が相次いだ
世界恐慌1929年〜アメリカの株価暴落をきっかけに、世界中で生産と貿易が落ちこんだ
昭和恐慌1930年〜日本で物価が急落し、とくに生糸と米の値段が暴落して農村が打撃を受けた

3. 金融恐慌(1927年)

第一次世界大戦後の日本は、1920年の戦後恐慌や1923年の関東大震災の影響で不況が続いていました。震災で決済できなくなった手形(震災手形)の整理も終わっていません。

1927年3月、第1次若槻礼次郎内閣の片岡直温大蔵大臣が議会で行った発言をきっかけに銀行の取り付けが相次ぎ、金融恐慌が始まりました。経営が行きづまった台湾銀行を救うため、内閣は日本銀行から特別の貸し出しを行う緊急勅令案を上奏し、枢密院にはかります。しかし枢密院はこれを否決し、若槻内閣は総辞職しました。

この出来事が示したもの内閣が決めた対策を、選挙で選ばれたわけではない枢密院が止め、内閣が倒れました。大正から続く政党内閣の仕組みが、ほかの機関との関係でゆらぎやすいことを示した出来事でもあります。次の田中義一内閣は、支払いを一時猶予するモラトリアムなどで混乱をおさめました。1分でわかる大戦景気と米騒動戦後不況までの流れ

4. 金解禁と世界恐慌

1929年7月に成立した浜口雄幸内閣は、まず財政を引きしめ、金の輸出を解禁して円の価値を安定させる方針をとりました。輸出をしやすくするには円安が有利ですが、あえて戦前と同じ高い交換比率にもどす(旧平価)という選択でした。

ところが準備の最中の1929年10月、ニューヨークの株価暴落から世界恐慌が始まります。1930年1月に金輸出が解禁されると、円高と世界的な不況が重なり、日本の輸出は大きく落ちこみました。政府の引きしめも重なって、物価は急速に下がっていきます。

政策の評価は分かれる金解禁は、経済の体質を強くするための改革として進められました。世界恐慌と重なったことで結果的に不況を深めたという見方が一般的ですが、当時の材料でどこまで予測できたかについては議論があります。1931年12月、犬養毅内閣の高橋是清蔵相は金輸出を再び禁止しました。

5. 昭和恐慌と農村

もっとも大きな打撃を受けたのは農村でした。アメリカ向けの生糸の輸出が激減して繭の値段が暴落し、1930年が全国的な豊作だったことも重なって米価も下がります。作物がとれても収入が増えない「豊作飢饉」とよばれる状況が生まれました。

福井県の記録では、1930年から翌年にかけて白米1升の値段がたばこ1箱ほどにまで下がり、山村では木炭、漁村では魚の値段も下がりました。その結果、弁当を持ってこられない子ども(欠食児童)や学校を休む子どもが増え続け、対策として1932年末から学校給食が始まっています。上級学校への進学者も激減しました。

「娘の身売り」について農村の困窮を示す例として、若い女性が働き先へ出される「身売り」がよく取り上げられます。東北などで実際に問題とされ、行政も対策を求められました。ただし、その件数が恐慌期に全国でどれだけ増えたのかは、統計の取り方をめぐって研究上の議論があります。ここでは数字を一つに決めず、農村の生活が実際に追いつめられていたという点を確認しておきます。

1931年には東北地方が凶作となり、1934年にも記録的な冷害が起こりました。農産物の値段が恐慌前の水準にもどるのは1936年ごろです。

6. 恐慌は何を変えたのか

都市では失業者が増え、企業の倒産も相次ぎました。労働争議と小作争議はこの時期に最も多くなります。農村では、政党や財閥への不満が強まりました。

ここで一本道にしない経済の行きづまりは、この時代を理解するうえで重要な背景です。しかし、恐慌があったから満州事変が起き、そのまま戦争になった、という単純な因果ではありません。満州事変は現地の軍の行動から始まり、政党政治の後退にはテロや軍の制度が関わり、対米英開戦にはさらに別の要因が積み重なります。恐慌は、そうした動きが受け入れられやすい空気をつくった要因の一つとして見るのが正確です。1分でわかる満州事変と満州国1931年に何が起きたのか

7. まちがえやすいところ

  • 金融恐慌と世界恐慌は別のできごと。1927年の銀行の危機と、1929年からの世界的な不況。
  • 昭和恐慌は、世界恐慌の日本版というだけではない。金解禁という政策の時期が重なったことも影響した。
  • 豊作なら生活が楽になる、ではなかった。米がとれても値段が下がり、収入は減った。
  • 恐慌が戦争を引き起こした、という一本の説明にはならない。ほかの要因と重なって働いた。

8. 1分で深掘り

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関連テーマ:震災手形/片岡直温/台湾銀行/若槻礼次郎/枢密院/モラトリアム/金解禁/浜口雄幸/井上準之助/豊作飢饉/欠食児童/高橋是清

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