五・一五事件と二・二六事件

1分でわかる

五・一五事件と二・二六事件

1930年〜1936年
首相が殺され、大臣が殺される。二つの事件のあと、政治の決まり方はどう変わったのかを見ていきます。
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1分でわかる歴史昭和・戦前戦中

五・一五事件と二・二六事件 まとめ

1. ひとことで言うと

1932年、首相が海軍の青年将校らに殺された。1936年には陸軍の青年将校らが大臣らを殺害し、東京の中心を占拠した。
政党が内閣をつくる形は続かなくなり、政治の決定で軍と官僚の影響が強まった

満州事変のころから、政党政治への不満と、軍の一部による国家改造の主張が強まっていました。1930年のロンドン海軍軍縮条約をめぐる対立、恐慌による生活の苦しさ、汚職への批判などが重なります。1932年5月15日、犬養毅首相が射殺され、政党の総裁が首相になる形はここで途切れました。1936年2月26日には、陸軍の青年将校らが大臣らを殺害するクーデターが起こります。鎮圧後、軍の発言力はいっそう大きくなりました。

2. 前段:ロンドン海軍軍縮条約と統帥権

1930年4月22日、ロンドンで日本・アメリカ・イギリスなどにより海軍軍縮条約が結ばれました。主力艦の建造休止の延長と、補助艦の保有比率などが定められます。

日本国内では、この条約に対し、統帥権を犯すものだ、国防の危機を招く、という反対の声が上がりました。軍の編成や兵力量を決めることは天皇の統帥に属し、政府が勝手に決めてよいのか、という主張です。条約は同年10月に枢密院で承認され、天皇の裁可を得ましたが、この論争は、政府の決定を「統帥権の侵害」として攻撃する手法を広げました。浜口雄幸首相は同年11月に狙撃され、翌年に亡くなっています。

3. 五・一五事件(1932年)

1932年5月15日、海軍の青年将校らが首相官邸や警視庁などを襲撃し、犬養毅首相を射殺しました。翌日、高橋是清大蔵大臣が臨時に首相を兼任します。

次の首相には、政党の総裁ではなく、海軍出身の斎藤実が選ばれました。複数の政党や官僚、軍から閣僚を集める挙国一致内閣です。1924年の加藤高明内閣から続いていた、衆議院の多数党が内閣をつくる形は、ここで途切れました。

「政党政治が終わった」の正確な意味この日に議会や政党が消えたわけではありません。衆議院の選挙はその後も行われ、政党も存在し、閣僚を出し続けます。変わったのは、選挙で多数を得た政党の総裁が首相になるという慣行が途切れたことです。首相の人選では、元老や重臣の判断と、陸軍・海軍が大臣を出すかどうかが大きな意味をもつようになりました。

4. 陸軍内部の対立

二・二六事件の背景には、陸軍内部の派閥の対立がありました。皇道派とよばれる系統と、統制派とよばれる系統です。1934年の士官学校をめぐる事件では、処分を受けた青年将校が、これは統制派の策謀だと主張しました。その後、皇道派の中心人物が教育総監を辞めさせられ、対立はさらに深まります。

「軍」という一つのまとまりがあったのではなく、軍の内部にも考え方と人事をめぐる争いがあったことが、この時期を見るうえで重要です。

5. 二・二六事件(1936年)

1936年2月26日未明、急進的な陸軍青年将校が、所属する部隊から約1400人の兵を率いて首相官邸などを襲撃しました。斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が殺害され、鈴木貫太郎侍従長が重傷を負います。青年将校らは、首相官邸・陸軍省・参謀本部などが集まる東京の麹町・三宅坂一帯を占拠し、「国家改造」を要求しました。

27日、東京市に戒厳令が施行されます。天皇が討伐の意思を示したことで事態は鎮圧へ向かい、29日に反乱軍として鎮圧されました。

くらべる点五・一五事件二・二六事件
いつ1932年5月15日1936年2月26日〜29日
中心海軍の青年将校ら陸軍の青年将校ら
規模少人数による襲撃約1400人の兵を動かした占拠
結果首相が殺害され、政党内閣が途切れた大臣らが殺害され、戒厳令ののち鎮圧された
処分実行者への刑は比較的軽く、減刑を求める運動も起きた反乱将校と思想的影響を与えた人物が死刑となった

6. 事件のあと、何が変わったのか

事件後の処分と人事(粛軍)によって、皇道派の将官の多くが予備役に編入され、統制派が実権をにぎりました。そのうえで、クーデターへの恐れが政界に影を落とし、軍の発言力はさらに増していきます。

1936年には、いったん改められていた軍部大臣現役武官制が復活しました。陸軍大臣と海軍大臣を現役の軍人から選ぶという決まりです。軍が大臣を出さなければ内閣はつくれず、大臣を引きあげれば内閣は倒れます。軍の意向に反する内閣がつくりにくくなりました。

誤解しやすい点二・二六事件を起こした青年将校が、その後の戦争を指導したのではありません。彼らは反乱として鎮圧され、処刑されています。その後の政治で力をもったのは、事件を抑える側に回った軍の中枢でした。

7. だれが決めていたのか

この時期の政治は、一人の人物や一つの集団が決めていたのではありません。大日本帝国憲法のもとでは、内閣、陸軍と海軍、参謀本部と軍令部、議会、枢密院、重臣、そして天皇が、それぞれ別の役割をもっていました。

天皇は憲法上の元首とされ、内閣や軍が決めた案を上奏されて裁可する立場にありました。二・二六事件では、天皇が鎮圧の意思を示したことが事態を動かしています。一方で、日々の政策や作戦の立案は内閣と軍が行い、決定に至る過程は場面ごとに異なりました。「天皇が一人ですべてを決めた」とも、「天皇はまったく関与しなかった」とも言えません。それぞれの決定について、だれが案をつくり、どこで議論され、どの手続きで決まったのかを見る必要があります。

8. まちがえやすいところ

  • 五・一五事件で議会も政党もなくなったのではない。途切れたのは、多数党の総裁が首相になる慣行。
  • 軍は一枚岩ではない。陸軍と海軍は別で、陸軍内部にも派閥の対立があった。
  • 二・二六事件の青年将校が戦争を主導したのではない。反乱として鎮圧され、処刑された。
  • 軍部大臣現役武官制は、ずっと続いていたのではない。1913年に改められ、1936年に復活した。

9. 1分で深掘り

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関連テーマ:ロンドン海軍軍縮条約/統帥権/浜口雄幸/犬養毅/斎藤実/挙国一致内閣/皇道派/統制派/高橋是清/戒厳令/軍部大臣現役武官制

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