明治の文化と教育
明治の文化と教育 まとめ
1. ひとことで言うと
同時に、国が教育の内容と考え方をまとめていく動きも強まった
明治の初めには3割に満たなかった就学率は、明治の終わりには9割を超えました。大学や研究の仕組みが整い、医学や科学で世界に知られる研究も生まれます。文学では、話しことばに近い文章で書く試みが広がりました。一方で、教育勅語に示されたように、国は学校で教える道徳の内容を定め、国民としての心構えを教えるようになります。広がりと統一は、同時に進んだのです。
2. 学校制度の整備
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1872年 | 学制。全国に小学校をつくる計画が示される |
| 1877年 | 東京大学が開設される |
| 1879年 | 学制にかわって教育令が出される(翌年、改正) |
| 1886年 | 学校令(帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令)。学校の種類ごとに制度を定める |
| 1890年 | 教育に関する勅語(教育勅語)が出される |
| 1900年 | 小学校令の改正で、義務教育は4年、授業料は原則として廃止 |
| 1907年 | 義務教育が6年に延長される |
授業料が廃止され、学校が身近になったことで就学率は大きく伸びました。1875年に約35パーセントだった就学率は、1905年には約96パーセントに達しています。教員を育てる師範学校が各地に置かれ、教科書も整えられていきました。
3. 教育勅語(1890年)
1890年10月30日、国民教育の根本となる考え方を示すものとして、教育に関する勅語が出されました。原案は井上毅や元田永孚らが起草しています。
勅語は、教育のもとが国のあり方にあるとしたうえで、父母に孝行すること、兄弟が仲良くすること、夫婦が和合すること、友を信じることなどの具体的な徳目をあげ、非常のときには国のために尽くすように求めました。
4. 学問と科学
帝国大学や専門学校が整えられ、欧米から招いた教師のもとで学んだ人びとが、やがて自分たちで研究を進めるようになります。医学では、北里柴三郎が細菌学で成果をあげ、志賀潔が赤痢菌を発見しました。物理や地震の研究も進みます。福沢諭吉の慶應義塾、大隈重信の東京専門学校(のちの早稲田大学)など、民間の学校も学問の担い手になりました。
5. ことばと文学
新聞や雑誌が広がり、文章を読む人が大きく増えました。書きことばと話しことばが離れていたため、話すように書く言文一致の試みが始まり、二葉亭四迷らがこれを進めます。
| 分野 | 人物と作品 |
|---|---|
| 小説 | 森鴎外、夏目漱石らが、近代の人間の悩みや社会を描いた |
| 女性の文学 | 樋口一葉が、まずしい人びとや少女の心を描いた。与謝野晶子は情熱的な短歌で知られる |
| 俳句と短歌 | 正岡子規が、写生を重んじる立場から俳句と短歌を新しくした |
6. 美術と音楽
西洋の絵画の技法が入り、黒田清輝らが洋画を広めました。一方で、日本の美術の価値を見直す動きもあり、フェノロサや岡倉天心らの働きかけによって日本画が新しく展開します。音楽では、学校教育に唱歌が取り入れられ、西洋の音階や楽器が広まりました。伝統的な芸能も続き、新しいものと古いものが並んでいたのがこの時代です。
7. 女性と教育
学制は男女が同じ内容を学ぶことを定めていましたが、女子の就学率は長く低いままでした。1873年の女子の就学率は15.1パーセントで、50パーセントを超えるのは1897年ごろです。女子に学校教育は必要ないという考え方が根強かったためです。やがて女学校がつくられ、岩倉使節団に同行した津田梅子のように、女子の教育に生涯をささげた人も現れます。ただし、進学できる学校や学べる内容には男女の差があり、明治民法のもとで家の中での立場も制限されていました。
8. まちがえやすいところ
- 教育が広がったことと、内容が自由だったことは別。国が教える内容を定めていく動きも強まった。
- 教育勅語を、一言で良い悪いと決めない。どんな時代に、どう使われたかを見ることが大切。
- 文化は西洋一色になったのではない。日本画や伝統芸能も続き、新旧が並んでいた。
- 女子の教育は、男子と同じようには広がらなかった。就学率にも進学先にも大きな差があった。
9. 1分で深掘り
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