条約改正

1分でわかる

条約改正

1871年〜1911年
幕末に結んだ不平等条約を、日本はどうやって改めたのか。なぜ40年以上もかかったのかを見ていきます。
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1分でわかる歴史明治時代

条約改正 まとめ

1. ひとことで言うと

日本は、法の仕組みを整えながら、40年以上かけて交渉を続けた。
1894年に領事裁判権をなくし、1911年に関税自主権を取りもどした

幕末に結ばれた通商条約には、日本で罪をおかした外国人を日本の法律で裁けない領事裁判権と、輸入品にかける税率を日本だけで決められないという二つの大きな不利がありました。明治政府はこの改正を最初からの課題としましたが、欧米は、日本の法律や裁判の仕組みが整っていないことを理由に応じません。改正は、国内の制度づくりと国際関係の変化が重なって、ようやく実現しました。

2. なぜ時間がかかったのか

相手の同意が必要だから条約を変えるには、相手国の同意が要ります。欧米にとって、領事裁判権や低い関税は有利な取り決めであり、手放す理由がありませんでした。
法の仕組みが整っていなかったから欧米は、自国民を日本の裁判にゆだねる条件として、近代的な法律と裁判の制度を求めました。憲法、民法、刑法などの法典を整えることが、交渉の前提になったのです。
国内の反対があったから改正のために外国人判事を任用するなどの譲歩案が示されると、国内から強い反対が起こり、交渉が中断することもありました。

3. 交渉のあゆみ

時期中心人物できごと
1871年岩倉具視岩倉使節団がアメリカで改正交渉を試みるが、国力の差や法制度の未整備から進まず、制度の調査に切りかえた
1880年代井上馨鹿鳴館を建てて欧化政策を進め、外国人判事の任用を含む案で交渉したが、国内の強い反対で辞任した
1889年大隈重信交渉を進めたが、案に反対する青年に襲われて負傷し、交渉は中断した
1894年陸奥宗光日英通商航海条約に調印。領事裁判権が撤廃され、関税自主権も一部回復した(施行は1899年)
1911年小村寿太郎日米通商航海条約に調印し、関税自主権を完全に回復した

4. 1894年:領事裁判権の撤廃

1894年7月16日、ロンドンで日英通商航海条約が調印されました。これにより領事裁判権が撤廃され、関税自主権も部分的に回復します。幕末以来の不平等条約の改正が、ここで第一歩をしるしました。

なぜこのときだったのか日本側では、憲法の発布と議会の開設、法典の整備が進み、近代的な法の仕組みが形になっていました。イギリス側には、ロシアの東アジアへの進出を警戒し、日本との関係を良くしておきたいという事情もありました。調印の直後に日清戦争が始まっています。

5. 1911年:関税自主権の回復

1911年2月21日、日米通商航海条約が調印され、関税自主権が完全に回復しました。あわせて、1894年の条約でアメリカが日本からの移民について差別的な法律を定めることができるとされていた規定も撤廃されます。ただし日本側は、日本人労働者のアメリカ移住について、それまで自主的に行ってきた制限を続けると宣言しました。

ここまで、幕末の調印から半世紀あまりがたっていました。

6. まちがえやすいところ

  • 鹿鳴館の舞踏会で、条約改正ができたのではない。井上馨の交渉は反対を受けて失敗している。
  • 条約改正は、一度に全部達成されたのではない。1894年に領事裁判権、1911年に関税自主権と、二段階で進んだ。
  • 外交交渉だけの問題ではない。憲法や法典の整備という、国内の制度づくりが前提だった。
  • 日本の努力だけで実現したのでもない。ロシアの進出をめぐる国際関係の変化も大きく影響した。

7. 1分で深掘り

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関連テーマ:領事裁判権/関税自主権/井上馨/鹿鳴館/大隈重信/陸奥宗光/小村寿太郎/日英通商航海条約

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