韓国併合と植民地支配の拡大

1分でわかる

韓国併合と植民地支配の拡大

1876年〜1910年
日本の対外進出は、どのように植民地支配へつながったのか。段階を追って権限が奪われていく過程と、抵抗した人びとを見ていきます。
A4で印刷できます。
← 明治時代にもどる
1分でわかる歴史明治時代

韓国併合と植民地支配の拡大 まとめ

1. ひとことで言うと

韓国併合は、ある日突然に起きたのではない。
外交権、内政、軍隊と、段階を追って権限が奪われ、1910年に併合に至った

日本は、1876年に朝鮮を開国させて以来、清やロシアと影響力を争ってきました。日露戦争のあと、日本は韓国の外交権を奪って統監府を置き、続いて内政の実権をにぎり、軍隊を解散させます。これに対して韓国では、各地で武装した抵抗(義兵闘争)が長く続きました。1910年、韓国併合条約によって韓国は日本に併合され、朝鮮総督府による統治が始まります。

2. 段階を追って強まった支配

年できごと何が変わったか
1876年日朝修好条規朝鮮を開国させた。日本の領事裁判権を認めさせる不平等な内容を含んでいた
1894年日清戦争清が朝鮮の独立を認め、清の影響力が後退した
1904年日露戦争が始まる日本軍が韓国内に展開し、協定によって日本の関与が強まった
1905年第2次日韓協約日本が韓国の外交を管理・指揮することになり、統監府が置かれた。初代統監は伊藤博文
1907年第3次日韓協約と軍隊の解散内政の実権も日本がにぎり、韓国軍が解散させられた
1910年韓国併合条約韓国皇帝が統治権のすべてを日本の天皇に譲るという形で併合された

1907年には、韓国皇帝がオランダのハーグで開かれていた国際会議に密使を送り、協約の不当を訴えようとしましたが、認められませんでした(ハーグ密使事件)。この直後に皇帝は退位させられ、第3次日韓協約が結ばれています。

3. 抵抗した人びと

義兵闘争日本の支配に反対して武器をとった人びとの運動で、1896年ごろの初期と、1905年から1914年ごろの後期に分かれます。参加したのは、農民、猟師、地方の兵士、旧軍人などさまざまな立場の人びとでした。1907年に韓国軍が解散させられると、元兵士が加わって戦闘力が高まり、1908年から1909年にかけて最も激しくなります。日本側は、軍の増強と憲兵・警察の配置によってこれを鎮圧しました。
言論と教育による運動学校をつくり、新聞を発行して力をつけようとする愛国啓蒙運動も広がりました。1909年には、安重根が初代統監だった伊藤博文をハルビンで射殺しています。

4. 併合後の統治

1910年8月22日に韓国併合条約が調印され、29日に公布・発効しました。朝鮮には朝鮮総督府が置かれ、総督が強い権限をもって統治します。憲兵が警察の役割を兼ねる仕組みがとられ、新聞や集会は厳しく取りしまられました。土地の調査が行われ、学校では日本語による教育が進められます。

植民地となった地域では、鉄道や道路、港、学校、病院などが整えられた面もあります。しかしそれらは、日本の統治と経済のために進められたという性格が強く、政治に参加する権利や、自分たちの言語と文化を守る権利は大きく制限されました。

一言で評価しない「近代化してあげた」という説明も、「すべてが収奪だった」という説明も、実際に起きたことを覆い隠してしまいます。大切なのは、何が決められ、だれが決め、その地域の人びとがどう扱われたのかを具体的に見ることです。台湾と朝鮮のどちらにも、支配する側と支配される側という関係がありました。

5. まちがえやすいところ

  • 1910年に突然、併合されたのではない。外交権、内政、軍隊と、段階を追って権限が奪われた。
  • 韓国の人びとが、黙って受け入れたのではない。義兵闘争や啓蒙運動など、長く抵抗が続いた。
  • 条約が結ばれたから正当だった、とは言えない。軍事的な圧力のもとで進められた過程そのものを見る必要がある。
  • 植民地支配は、明治の終わりで完結したのではない。朝鮮では1945年まで、台湾でも1945年まで統治が続いた。

6. 1分で深掘り

あわせて読む

1分でわかる日露戦争韓国での優越権が認められた条約 1分でわかる日清戦争と台湾植民地支配の始まり ← 明治時代にもどる

関連テーマ:日朝修好条規/第2次日韓協約/統監府/ハーグ密使事件/義兵闘争/安重根/朝鮮総督府

関連記事

特集記事

コメント

この記事へのコメントはありません。

TOP
CLOSE