ソ連参戦とポツダム宣言

1分でわかる

ソ連参戦とポツダム宣言

1945年
日本はどのような過程で戦争を終えたのか。8月15日と9月2日は何がちがうのかを、順を追って見ていきます。
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1分でわかる歴史昭和・戦前戦中

ソ連参戦とポツダム宣言 まとめ

1. ひとことで言うと

戦況の悪化、空襲と海上封鎖、原子爆弾、ソ連の参戦が重なり、政府内の議論を経てポツダム宣言の受諾が決まった。
国民に伝えられたのが8月15日、連合国に正式に降伏したのが9月2日

1945年、日本は本土への空襲と海上封鎖で物資が尽きかけ、沖縄も失っていました。政府は中立条約を結んでいたソ連に和平の仲介を求めますが、進みません。7月26日に示されたポツダム宣言に対して政府は明確な態度を示さず、8月6日に広島、8日にソ連参戦、9日に長崎と事態が続きます。8月14日の御前会議で受諾が決まり、15日にその内容が国民に伝えられました。降伏文書への調印は9月2日です。

2. 終わらせ方を探していた

1945年に入ると、日本国内でも戦争を終わらせる方法が模索されるようになります。ただし、無条件での降伏は受け入れがたいという立場が強く、天皇を中心とする国のあり方を維持できるかどうかが大きな論点になりました。

政府が頼ろうとしたのは、日ソ中立条約を結んでいたソ連による仲介でした。しかしソ連は、すでに1945年2月のヤルタ会談で、ドイツの降伏後に対日参戦することを連合国と取り決めていました。日本側はその内容を知らないまま、仲介を待ち続けます。

3. 1945年7月から8月へ

日付できごと
7月26日アメリカ・イギリス・中国の名でポツダム宣言が示される
7月28日ごろ日本政府は、この宣言を黙殺するという姿勢を示す
8月6日広島に原子爆弾が投下される
8月8日ソ連が日本に宣戦を布告する
8月9日ソ連軍が満州国との国境沿いで侵攻を開始。同日、長崎に原子爆弾が投下される
8月9日〜10日御前会議が開かれ、ポツダム宣言の受諾をめぐって議論が続く
8月14日御前会議でポツダム宣言の受諾が決定。詔書の案が閣議にかけられ、文言が確定する
8月15日正午詔書がラジオで放送され、国民に伝えられる(玉音放送)
9月2日日本が連合国に対する降伏文書に調印する
「黙殺」という言葉ポツダム宣言に対する日本政府の態度は、はっきり拒否するとも受け入れるとも言わないものでした。この姿勢は、連合国側には拒否と受けとられています。言葉の受けとられ方が、その後の展開に影響した例です。

4. ソ連参戦と、そのあと

ソ連は日ソ中立条約を結んでいましたが、8月8日に宣戦を布告し、9日に満州へ侵攻しました。南樺太と千島列島でも戦闘が行われます。

8月15日に玉音放送があったあとも、この地域では戦闘が続きました。8月18日に溥儀が退位して満州国は消滅し、19日に関東軍はソ連軍と現地で停戦の協定を結びます。当時、満州には約155万人の日本人がいたとされ、開拓団の人びとを含め、避難の過程で多くの犠牲が出ました。日本への帰還(引揚げ)が本格的に始まるのは1946年春以降です。

戦争は同時には止まらなかった8月15日に世界中で戦闘が一斉に終わったわけではありません。地域によって、停戦の時期も、武装解除の時期も異なりました。

5. 8月15日と9月2日のちがい

くらべる点8月15日9月2日
何があった日か前日に決定された詔書が、ラジオで国民に伝えられた日日本が連合国に対する降伏文書に調印した日
相手日本の国民に向けた発表連合国に対する正式な手続き
法的な意味国内への通知であり、これ自体が降伏の文書ではない降伏が文書として確定した
日本での呼び方「終戦の日」とよばれ、追悼の日になっている連合国側では、この日を戦争の終結として記念する国が多い

日本では「終戦」という言い方が当時から使われてきました。ただし実際に起きたのは、日本が連合国に敗れ、ポツダム宣言を受け入れて降伏したということです。どちらの言葉を使うにせよ、何が決まり、いつ、どの手続きで確定したのかを押さえることが大切です。

6. なぜ終わったのか:一つの原因ではない

  • 戦況サイパン、フィリピン、沖縄を失い、艦隊も航空戦力も大きく損なわれていた。
  • 本土空襲主要な都市が焼かれ、生産と輸送が成り立たなくなっていた。
  • 海上封鎖船を失い、資源も食料も運べなくなっていた。
  • 原子爆弾広島と長崎への投下は、政府内の議論に大きな衝撃を与えた。
  • ソ連参戦仲介を期待していた相手が参戦したことで、終わらせる道の一つが消えた。
  • 政府・軍内部の議論受諾の条件をめぐり、続戦を主張する意見と受諾を主張する意見が対立していた。
  • ポツダム宣言の内容受け入れる形が文書として示されていたことが、決定の枠組みになった。

原爆だけ、ソ連参戦だけ、といった一つの要因で説明することはできません。どれがどれだけ働いたかについては、今も研究上の議論が続いています。

7. 降伏のあとに続いたこと

降伏文書の調印後、連合国軍が日本に進駐し、占領が始まりました。朝鮮や台湾は日本の支配から離れ、外地にいた軍人の復員と、民間人の引揚げが始まります。その数は数百万人にのぼり、帰るまでに時間がかかった人や、帰れなかった人もいました。

占領のもとで、憲法、選挙、教育、農地、労働、経済の仕組みが作りかえられていきます。その過程は「昭和・戦後」のページで整理します。

8. まちがえやすいところ

  • 8月15日に降伏の文書に署名したのではない。調印は9月2日。
  • 8月15日で戦闘がすべて止まったのではない。満州や南樺太などでは戦闘が続いた。
  • ソ連は中立条約を守って参戦しなかった、のではない。条約があったまま、8月8日に宣戦を布告した。
  • 終結の理由を一つに決められない。戦況、空襲、封鎖、原爆、ソ連参戦、政府内の議論が重なった。

9. 1分で深掘り

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関連テーマ:ヤルタ会談/日ソ中立条約/ポツダム宣言/御前会議/終戦の詔書/玉音放送/降伏文書/満州/引揚げ/復員

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