空襲・沖縄戦・原子爆弾
空襲・沖縄戦・原子爆弾 まとめ
1. ひとことで言うと
そして広島と長崎に原子爆弾が投下された
1944年7月にサイパン島が陥落すると、日本本土は長距離爆撃機の行動範囲に入りました。1945年3月10日の東京大空襲をはじめ、各地の都市が焼かれます。3月末から沖縄では激しい戦闘が始まり、4月1日に米軍が本島に上陸し、6月下旬に日本軍の組織的な戦闘が終わりました。8月6日に広島、9日に長崎へ原子爆弾が投下され、両市は壊滅します。この時期の被害は、兵士だけでなく、そこで暮らす人びとに及びました。
2. 本土空襲
1945年3月9日の夜から10日の未明にかけて、アメリカ軍のB29爆撃機が東京の下町を中心に焼夷弾を投下しました。いわゆる東京大空襲です。木造の家が密集する地域に火災が広がり、逃げ場を失った人が多数亡くなりました。
空襲は東京だけではありません。大阪、名古屋、神戸をはじめ、全国の多くの都市が対象になりました。東京都の区部が受けた空襲は60回を超えるとされます。
人びとは防空訓練を行い、家庭では灯火管制が行われました。1944年からは学童疎開が進められ、子どもたちが親元を離れて地方へ移ります。しかし、焼夷弾による大規模な火災の前では、家庭や隣組による消火には限界がありました。
3. 沖縄戦
1945年3月下旬、米軍の艦隊が沖縄本島に接近し、空襲と艦砲射撃を行いました。慶良間諸島への上陸を経て、4月1日に本島中部へ上陸します。日本軍は本島南部に陣地を築いて抵抗し、戦闘は3か月以上続きました。6月下旬、第32軍を中心とする組織的な戦闘は終結へ向かいます。
4. 広島・長崎への原子爆弾
1945年8月6日に広島、9日に長崎へ原子爆弾が投下されました。両都市は、爆発とその後の火災で壊滅し、多数の死傷者が出ます。熱線、爆風、そして放射線による被害が同時に起こり、その場で助かった人も、その後に放射線による症状で亡くなりました。
| 都市 | 公的機関が示している数字 |
|---|---|
| 広島 | 広島市は、放射線による急性の障害がおさまった1945年12月末までに、約14万人(誤差±1万人)が亡くなったと推計している。同時に、被爆直前の人口資料が焼失したことなどから、正確な人数は分かっていないと説明している |
| 長崎 | 1945年12月末までに73,884人が亡くなり、74,909人が負傷したとされる。これは長崎市原爆資料保存委員会が1950年7月に発表した推定である |
どちらも「その時点までの」「推計または当時の調査にもとづく」数字です。放射線の影響は長く続き、その後も亡くなった人がいます。数字は、被害の全体をそのまま表すものではありません。
5. 戦場になるとは、どういうことか
空襲、沖縄戦、原子爆弾に共通するのは、被害が兵士だけでなく、そこで暮らす人びとに及んだことです。家が焼かれ、家族が離ればなれになり、学校も病院も失われました。生き残った人には、やけどや放射線による病気、家族を失った悲しみ、差別など、戦争が終わったあとも続く困難がありました。
同じ時期、日本が占領した地域や戦場となった国々でも、そこに暮らす人びとが同じように巻きこまれていました。1分でわかる植民地・占領地と戦争動員日本の外で起きていたこと
6. まちがえやすいところ
- 空襲は東京だけではない。全国の多くの都市が対象になった。
- 被害の数字は、確定した一つの数ではない。いつまでの、どの範囲の数かで変わる。
- 沖縄戦を「唯一の地上戦」と単純に言えない。公的資料が強調するのは、住民をまきこんだ規模と犠牲の大きさ。
- 原爆投下の理由を一つに決められない。複数の要因が指摘され、議論が続いている。
7. 1分で深掘り
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