日独伊三国同盟と日米対立
日独伊三国同盟と日米対立 まとめ
1. ひとことで言うと
アメリカは資産凍結と石油の輸出停止で応じ、交渉もまとまらず、開戦が決まった
1939年にヨーロッパで第二次世界大戦が始まると、日本はドイツの優勢を見て、1940年9月に日独伊三国同盟を結びます。同じころ、中国への支援ルートを断ち、資源を得るためにフランス領インドシナへ進みました。アメリカは日本への輸出を制限し、1941年7月の南部仏印進駐に対しては資産凍結と石油の全面禁輸で応じます。日米交渉は続きましたが、中国からの撤兵などをめぐって折り合わず、12月1日の御前会議で開戦が決まりました。
2. 日独伊三国同盟(1940年)
1940年9月27日、日独伊三国同盟条約が結ばれました。ヨーロッパとアジアで新しい秩序をつくることについて、三国が互いに指導的な地位を認め合い、そのための協力と、ヨーロッパの戦争にも日中戦争にも参戦していない第三国から攻撃を受けた場合の相互援助を定めた内容です。
1941年4月には日ソ中立条約も結ばれます。どちらか一方が第三国の軍事行動の対象となった場合、他方は中立を守るという内容で、北方の安全を確保して南へ向かう判断と結びついていました。
3. 南へ進む
- 1940年9月 北部仏印進駐ドイツに敗れたフランスの植民地インドシナの北部へ進駐。中国への支援物資が通るルートを断つことが目的の一つだった。
- 1941年4月 日米交渉の開始政府間の交渉が始まる。中国からの撤兵、三国同盟の扱いなどが主な論点になった。
- 1941年7月2日 御前会議南方へ進む方針が決められる。
- 1941年7月下旬 南部仏印進駐インドシナ南部へ進駐。ここは東南アジアの資源地帯に近く、軍事的な意味が大きかった。
- 1941年8月 アメリカの対応在米日本資産の凍結と、対日石油の全面禁輸などの措置がとられる。日米交渉は行きづまった。
4. 資源の問題は、それだけでは開戦の説明にならない
石油の輸入が止まれば、艦船も航空機も動かせなくなります。備蓄は限られており、時間がたつほど戦う力は落ちていきます。この「時間の圧力」は、開戦へ傾く判断に強く働きました。
しかし「石油がなくなったから戦争した」という一行では足りません。次の点が同時に関わっています。
- 中国からの撤兵問題アメリカは中国からの撤兵を求め、日本側は、多くの犠牲を出した戦争の成果を手放せないとした。
- 仏印進駐という選択禁輸は、南部仏印進駐への対応として行われた。進駐は日本自身の判断だった。
- 三国同盟ドイツとの同盟をどう扱うかが、交渉の障害の一つになった。
- 戦略判断石油を得るには東南アジアの資源地帯を押さえる必要があり、それはアメリカ・イギリスとの戦争を意味した。
- 交渉の余地交渉を続けるか、期限を切るかも選択だった。実際には期限が設けられ、決定が早められた。
5. 開戦は、どう決まったのか
1941年11月26日、アメリカは日本側にハル・ノートとよばれる文書を手交しました。中国とインドシナからの全面的な撤退などを含む内容で、日本側はこれを実質的な最後通牒と受けとめます。
12月1日の御前会議で、開戦が決定されました。御前会議は、天皇の前で政府と軍の首脳が重要方針を決める会議です。案は内閣と軍が作り、そこで確認される形をとりました。
12月8日、日本はイギリス・アメリカに対して宣戦を布告しました。
6. まちがえやすいところ
- 三国同盟はアメリカを避けるためだったが、逆の結果になった。牽制のつもりが、対立を深めた。
- 石油禁輸は、理由もなく行われたのではない。南部仏印進駐への対応として行われた。
- 「ABCD包囲網」は正式な同盟の名前ではない。当時使われた呼び方で、実際は各国の個別の措置。
- 開戦は一人が決めたのではない。内閣と軍が案をつくり、御前会議で決定された。反対の意見もあった。
7. 1分で深掘り
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