日中戦争
日中戦争 まとめ
1. ひとことで言うと
勝敗をつける相手も、終わらせる交渉の窓口も失われ、戦争は長期化した
1937年7月7日、北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突しました。戦闘は北京・天津へ、さらに上海へと広がり、9月2日、日本政府はこれを「支那事変」とよぶと発表します。宣戦布告のない全面戦争でした。12月に首都南京を占領しても中国は降伏せず、1938年1月、日本政府は国民政府を相手にしないという声明を出します。以後、戦争を終わらせる交渉相手そのものがなくなりました。戦いは1945年まで続きます。
2. 戦争の前にあったこと
満州事変のあとも、日本は中国北部で勢力を広げようとしていました。一方の中国では、国民政府の蒋介石が共産党との内戦を優先していましたが、1936年の西安事件をきっかけに方針が変わり、日本に対しては協力して当たる方向へ進みます(抗日民族統一戦線)。
つまり、日本が「一撃を加えれば中国は譲歩する」と考えていた時期に、中国側はむしろ抵抗を固めつつありました。この見通しのずれが、その後の長期化につながります。
3. 開戦から戦線の拡大へ
| 時期 | できごと |
|---|---|
| 1937年7月7日 | 盧溝橋で日中両軍が衝突する |
| 1937年7月末 | 日本軍が北京・天津地方を制圧する |
| 1937年8月 | 上海で日本海軍の中尉が射殺されたことを機に、上海方面への出兵を決定。激しい戦闘になる |
| 1937年9月2日 | 政府が「支那事変」という呼称を発表する |
| 1937年12月13日 | 日本軍が首都南京を占領する |
| 1938年1月16日 | 「爾後国民政府を対手とせず」とする声明(近衛声明)が出される |
| 1938年10月 | 武漢・広州を占領する。国民政府は重慶へ移り、抗戦を続ける |
4. 南京の占領で起きたこと
1937年12月、日本軍は南京を占領しました。このとき、捕虜や武器を捨てた兵士、そして民間人が殺害され、略奪や女性への暴行も起こりました。外国人が中心となって設けた国際安全区に逃れた人びともいましたが、そこでも被害がありました。
5. なぜ終わらなかったのか
- 相手が降伏しなかった。国民政府は首都を南京から武漢、さらに重慶へ移して抗戦を続けた。
- 交渉の相手を自ら否定した。1938年の近衛声明で「国民政府を対手とせず」としたため、講和の窓口がなくなった。
- 占領できたのは点と線だった。中国は広く、日本軍は都市と鉄道沿線を押さえたが、その外側は支配が及ばなかった。
- 抵抗が各地で続いた。国民政府の軍のほか、共産党の軍も各地で活動した。
- 外からの支援があった。アメリカ、イギリス、ソ連などが中国側を支援する経路があり、日本はその遮断を目指した。
- 補給が続かなかった。戦線が広がるほど、兵員・物資・輸送の負担が増えた。
日本は占領地に、日本に協力する政権(1940年の汪兆銘の政権など)をつくって事態を収めようとしましたが、中国国内での支持は限られ、戦争を終わらせることはできませんでした。
6. 日中戦争が日本を変えた
終わらない戦争は、国内の仕組みを大きく変えました。1938年には国家総動員法が制定され、人も物も政府が統制できるようになります。国民には貯蓄や節約が求められ、報道は統制されました。
対外的にも、中国での戦争を続けることが、米英との関係を悪化させていきます。のちに南方へ進出する判断も、この戦争を続けるための資源の確保と結びついていました。1分でわかる国家総動員と戦時下の暮らし長期戦が暮らしを変えた
7. まちがえやすいところ
- 日中戦争は、満州事変の続きとして自動的に起きたのではない。間に6年あり、別の経緯から始まった。
- 首都を占領すれば戦争が終わる、とはならなかった。国民政府は移転して抗戦を続けた。
- 「すぐ勝てると思ったのに勝てなかった」だけではない。交渉相手を自ら否定したことも、終わらせられなかった理由。
- 南京で起きたことを、数の議論にすりかえない。殺害や略奪があったこと自体は、日本政府も否定していない。
8. 1分で深掘り
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