日清戦争と台湾

1分でわかる

日清戦争と台湾

1894年〜1895年
日本と清は、なぜ朝鮮をめぐって戦争になったのか。そして戦争のあと、東アジアと日本は何が変わったのかを見ていきます。
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1分でわかる歴史明治時代

日清戦争と台湾 まとめ

1. ひとことで言うと

朝鮮をめぐる日本と清の対立が、戦争になった。
日本が勝ち、台湾を植民地として支配するようになった

朝鮮では、長く清との関係が深く、日本もまた影響力を強めようとしていました。1894年、朝鮮で農民の大きな蜂起が起こると、日清両国が軍隊を送り、8月に戦争が始まります。日本が勝ち、翌1895年の下関条約で、清は朝鮮の独立を認め、台湾などを日本にゆずりました。日本はここから、他の地域を植民地として支配する国になります。

2. 戦争までの流れ

朝鮮は長いあいだ清と結びつきの深い関係にありました。日本は1876年の日朝修好条規で朝鮮を開国させ、その後も影響力を強めようとします。朝鮮の政府の中でも、清に頼る立場と、日本に学んで改革を進める立場が対立していました。

1894年、重い税や役人の不正に苦しむ農民が、朝鮮南部で大きな蜂起を起こします(甲午農民戦争、東学農民運動)。朝鮮政府の求めに応じて清が出兵すると、日本も対抗して出兵しました。農民との戦いが収まったあとも両軍は引かず、8月1日、日本は清に宣戦布告します。宣戦の詔勅では、独立国である朝鮮への清の干渉を非難し、朝鮮の独立を確保するために戦うと述べられました。

3. 下関条約(1895年)

1895年4月17日、日本の伊藤博文と陸奥宗光、清の李鴻章らによって、日清講和条約(下関条約)が調印されました。

決められたこと中身
朝鮮清が、朝鮮の独立を認める
領土遼東半島、台湾、澎湖列島を日本にゆずる
賠償金清が2億両を支払う
通商ヨーロッパ諸国と同じような通商航海条約を日本と結ぶ
三国干渉条約の直後、ロシア・ドイツ・フランスは、日本が遼東半島をもつことは東アジアの平和の妨げになるとして、返還を勧告しました。日本は5月にこれを受け入れます。力では退けられないという経験は国内に強い反発を生み、ロシアへの対抗心が高まりました。

4. 台湾の統治が始まる

下関条約により、台湾と澎湖列島は日本にゆずられました。1895年6月17日、台北で始政式が行われ、台湾総督府による統治が正式に始まります。この統治は、1945年まで50年間続きました。

住民の抵抗があった台湾には、もとから暮らしていた人びとがいます。条約は日本と清のあいだで結ばれたもので、住民の意思を問うものではありませんでした。日本の支配に反対する人びとは各地で武力による抵抗を続け、日本軍はこれを武力で鎮圧しました。統治が安定したあとも、台湾の人びとは、総督府が定める法や教育、産業の仕組みのもとに置かれ、政治に参加する権利は大きく制限されていました。

台湾では、鉄道や港、学校、衛生の制度なども整えられていきます。ただし、それらは日本の統治を安定させ、日本経済に役立てるために進められた面が強く、「近代化してあげた」という一言でも、「すべてが収奪だった」という一言でも、実際に起きたことは説明できません。支配する側と支配される側という関係があったことを踏まえて見る必要があります。

5. 戦争が残したもの

日本国内賠償金は軍備の拡張や産業の育成にあてられ、官営の八幡製鉄所の建設にも使われました。一方、戦争の費用と人的な負担は大きく、増税も行われています。1分でわかる明治の産業革命と社会問題戦後の産業の発展
東アジア清の弱さが明らかになり、欧米諸国は中国での権益を競って求めるようになります。朝鮮では、清に代わってロシアの影響力が強まり、日本との対立が深まっていきました。

6. まちがえやすいところ

  • 日本が近代化したから勝った、というだけの話ではない。朝鮮国内の対立や、清の国内の事情も関係していた。
  • 朝鮮の独立を認めたことは、朝鮮が自由になったことを意味しない。清の影響力が後退し、日本とロシアの争いの場になった。
  • 台湾を「手に入れた」で終わらせない。そこには暮らしている人びとがいて、抵抗もあった。
  • 三国干渉は、日本が力で押し返せなかった経験。これがロシアとの対立につながった。

7. 1分で深掘り

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関連テーマ:甲午農民戦争/下関条約/李鴻章/遼東半島/三国干渉/台湾総督府/澎湖列島

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