大日本帝国憲法と帝国議会
大日本帝国憲法と帝国議会 まとめ
1. ひとことで言うと
議会は開かれたが、選挙に参加できたのは人口のごく一部だった
自由民権運動の高まりを受けて、政府は1881年、10年後に国会を開くことを約束しました。伊藤博文らはヨーロッパで憲法を調べ、内閣制度を整えたうえで草案をつくります。1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布され、翌1890年には最初の選挙と帝国議会が行われました。日本はアジアで早い時期に憲法と議会をもつ国になりましたが、その仕組みは現在の日本国憲法とは大きく異なります。
2. 憲法ができるまで
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1881年 | 明治十四年の政変で大隈重信が政府を去る。国会開設の勅諭が出され、1890年に国会を開くことが約束される |
| 1882年 | 伊藤博文が憲法調査のためヨーロッパへ向かう(翌年帰国) |
| 1885年 | 太政官制度をやめ、内閣制度をつくる。初代内閣総理大臣は伊藤博文 |
| 1888年 | 枢密院を置き、憲法草案を審議する。市制と町村制が公布される |
| 1889年 | 2月11日、大日本帝国憲法が発布される |
| 1890年 | 7月に第1回衆議院議員総選挙、11月に第1回帝国議会が開かれる |
3. 大日本帝国憲法の仕組み
この憲法のもとでは、天皇が国の元首として統治権を総攬しました。総攬とは、すべてを一手にまとめてもつという意味です。そのうえで国民は、法律の範囲内で、住む場所を選ぶ自由や信教の自由、言論・出版・集会・結社の自由、手紙の秘密、財産の保護などが認められました。帝国議会が設けられて法律案や予算案を審議する権限(協賛権)をもち、司法権は行政権から独立して、三権分立が定められました。
| くらべる点 | 大日本帝国憲法 | 日本国憲法 |
|---|---|---|
| 主権 | 天皇が統治権をもつ | 主権は国民にある |
| 国民の権利 | 臣民の権利として、法律の範囲内で認められた | 侵すことのできない基本的人権として保障される |
| 議会 | 貴族院と衆議院。法律や予算に同意する協賛の機関 | 国会が国権の最高機関で、唯一の立法機関 |
| 内閣 | 大臣は天皇を助ける立場で、議会に対して責任を負う形ではなかった | 内閣は国会に対して責任を負う |
貴族院は、皇族や華族、天皇が任命した議員などで構成され、選挙で選ばれる衆議院とほぼ対等な権限をもっていました。
4. 第1回の選挙と議会
1890年7月1日、第1回衆議院議員総選挙が行われました。選挙権があったのは、直接国税を15円以上納める満25歳以上の男子で、有権者は人口のおよそ1.1パーセントにすぎません。立候補できるのは、同じ額の国税を納める30歳以上の男子でした。投票率は93.7パーセントでした。
11月に開かれた第1回帝国議会では、300人の衆議院議員のうち過半数を、自由民権運動の流れをくむ立憲自由党や立憲改進党などの民党が占めました。民党は税の軽減や政費の節減を求め、軍備の拡張を進めたい政府と激しく対立します。憲法発布の翌日、黒田清隆首相は、政府の政策は政党の意向に左右されてはならないという超然主義を唱えていました。
5. まちがえやすいところ
- 今の憲法と同じ仕組みではない。統治権は天皇にあり、国民の権利は法律の範囲内で認められた。
- 国会が開かれて、すぐに国民全員が政治に参加できたのではない。有権者は人口の約1.1パーセント。
- 議会に力がなかったのでもない。予算や法律の審議を通じて、政府と激しく対立した。
- 憲法は、民間の案から選ばれたのではない。政府がつくった案を天皇が定める形で発布された。
6. 1分で深掘り
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1分でわかる条約改正法の仕組みを整えることと外交 1分でわかる自由民権運動議会ができるまでの動き ← 明治時代にもどる関連テーマ:明治十四年の政変/国会開設の勅諭/伊藤博文/内閣制度/枢密院/貴族院/超然主義
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