自由民権運動
自由民権運動 まとめ
1. ひとことで言うと
国会を開き、憲法をつくることを求める運動が、士族から地域社会へと広がっていった
明治六年の政変で政府を去った板垣退助らは、1874年、政府の一部の役人だけで政治が決められている(有司専制)と批判し、民撰議院設立建白書を政府に提出しました。この主張は新聞に載って大きな反響をよび、やがて士族だけでなく、地方の豪農や商人、一般の人びとも加わる運動へと広がります。政府は取りしまりを強めながらも、1881年に10年後の国会開設を約束しました。
2. 始まり:民撰議院設立建白書
板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らは、1874年1月、民撰議院設立建白書を左院に提出しました。建白書は、政府の有司専制が政治の危機を招いているとして、広く人びとの意見を政治に反映させるために、選挙で選ばれた議会を設けるべきだと主張しています。板垣らは翌日、その内容を新聞で公表しました。
3. 運動の広がり
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1874年 | 板垣退助が土佐で立志社をつくる |
| 1875年 | 大阪で愛国社が結成される。政府は漸次立憲政体樹立の詔を出し、元老院と大審院を置く |
| 1880年 | 国会期成同盟が結成され、国会開設の請願が政府に出される |
| 1881年 | 自由党が結成される(板垣退助) |
| 1882年 | 立憲改進党が結成される(大隈重信) |
はじめは士族が中心でしたが、やがて、地租の負担に苦しむ豪農や地主、商人が加わりました。各地で演説会が開かれ、政治を論じる結社がつくられます。中江兆民はルソーの著作を翻訳して運動を理論の面から支え、岸田俊子のように女性の権利を主張して演説する人も現れました。歌や芝居で思想を広める動きもありました。
4. 政府の対応
5. 私擬憲法と激化事件
国会の開設が近づくと、政府だけでなく民間でも憲法の草案がつくられました。これを私擬憲法といいます。東京の五日市でつくられた五日市憲法や、植木枝盛の東洋大日本国国憲案などが知られています。
1880年代の前半、物価の下落などで農村の生活が苦しくなると、運動は激しさを増しました。1882年の福島事件、1884年の秩父事件などが起こります。秩父事件では、埼玉県秩父地方の農民らが借金の減免などを求めて、郡役所や警察、高利貸しを襲い、政府は鎮台兵や憲兵隊を出動させて鎮圧しました。こうした事件のあと、運動は一度勢いを失います。
6. 現在の民主主義と同じではない
自由民権運動は、政治に参加する権利を求めた点で、近代の民主主義につながる動きです。ただし、当時求められた国会は、天皇を中心とする国の仕組みの中に置かれるものでした。すべての人に参政権を認めるという主張は一般的ではなく、女性の参政権はほとんど視野に入っていません。また、地租の軽減など、参加した人びとそれぞれの利害も運動を動かしていました。
7. まちがえやすいところ
- 自由民権運動は、士族だけの運動ではない。豪農や商人、地域の人びとにも広がった。
- 政府が、国会開設に一方的に反対していたのではない。時期や形をめぐって意見が分かれていた。
- 現在の民主主義運動と、そのまま同じではない。天皇中心の国の仕組みが前提で、参政権も限られていた。
- 激化事件が、運動のすべてではない。演説会や請願など、言論による活動が中心だった。
8. 1分で深掘り
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1分でわかる大日本帝国憲法と帝国議会国会はどのような形で開かれたのか 1分でわかる岩倉使節団と西南戦争運動が始まった背景 ← 明治時代にもどる関連テーマ:民撰議院設立建白書/立志社/国会期成同盟/自由党/立憲改進党/私擬憲法/秩父事件/中江兆民
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