富国強兵と文明開化
富国強兵と文明開化 まとめ
1. ひとことで言うと
そのために産業を育てる政策が殖産興業、暮らしや文化の変化が文明開化
欧米と対等な関係を結ぶためには、経済力と軍事力を高める必要がある。明治政府はそう考えました。この目標が富国強兵です。政府は、官営の工場をつくり、鉄道や郵便、銀行の仕組みを整えて産業を育てました(殖産興業)。同時に、都市を中心に、洋風の建物や服装、太陽暦、新聞などが広がります(文明開化)。ただし、その広がり方は、住む場所や暮らし向きによって大きくちがいました。
2. 三つのことばの関係
| ことば | 意味 | たとえば |
|---|---|---|
| 富国強兵 | 国を豊かにし、軍事力を強めるという政府の目標 | 徴兵令、軍備の整備、産業の育成 |
| 殖産興業 | 目標を実現するために、政府が産業を育てた政策 | 官営工場、鉄道、郵便、銀行の制度 |
| 文明開化 | 欧米の文物が入り、暮らしや考え方が変わった動き | 太陽暦、洋服、ガス灯、新聞、学校 |
3. 殖産興業:政府が産業を育てる
開国後、日本の主な輸出品は生糸でした。しかし品質にばらつきがあり、国際的な評価が下がることもありました。そこで政府は、品質を高め、技術者を育てるために、洋式の機械を備えた官営の模範工場をつくります。
1873年には内務省が置かれ、大久保利通のもとで産業を育てる政策が進められました。しかし官営工場の多くは赤字で、1880年の工場払下げ概則をきっかけに、民間へ払い下げられていきます。これが、のちの財閥の成長にもつながりました。
4. 文明開化:暮らしと文化の変化
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1871年 | 郵便が始まる。散髪や洋服が認められる |
| 1872年 | 鉄道が開通する。学制が公布される |
| 1872年 | 太陰暦をやめて太陽暦を採用する(旧暦の明治5年12月3日を明治6年1月1日とした) |
| 1870年代 | 都市にレンガ造りの建物やガス灯が現れる。新聞や雑誌が広がる |
福沢諭吉の『学問のすゝめ』のように、新しい考え方を伝える本も多くの人に読まれました。牛鍋や洋服、帽子、洋風の建物は、東京や横浜などの都市で目立つようになります。
5. だれが変化を支えたのか
政府は、欧米から多くの技術者や教師を高い給料で招きました(お雇い外国人)。また、留学生を送り、帰国した人びとが制度や技術を伝えます。工場で働いた人、鉄道を敷いた人、新しい学校で学んだ子どもたちなど、名前の残らない多くの人びとが、この変化を支えました。
6. まちがえやすいところ
- 富国強兵と殖産興業は、同じ意味ではない。富国強兵が目標で、殖産興業はそのための政策。
- 文明開化で、全員が洋服を着たのではない。広がったのは主に都市で、農村の暮らしはゆっくり変わった。
- 官営工場が、そのまま日本の産業になったのではない。多くは赤字で、民間に払い下げられた。
- 日本がすべて西洋化したのではない。従来の暮らしと新しいものが混ざり合っていった。
7. 1分で深掘り
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