岩倉使節団と西南戦争
岩倉使節団と西南戦争 まとめ
1. ひとことで言うと
帰国後、改革の進め方や朝鮮への対応をめぐって政府は分裂し、やがて士族の反乱へつながった
1871年、廃藩置県を終えた政府は、岩倉具視を代表とする使節団を欧米に送りました。目的は、不平等条約の改正交渉と、欧米の制度や産業の調査です。留守を預かった政府は、その間に学制や徴兵令、地租改正などの改革を進めました。使節団が帰国すると、朝鮮への使節派遣をめぐって両者が対立し、西郷隆盛や板垣退助らが政府を去ります。そして、特権を失っていった士族の不満は、1877年の西南戦争で頂点に達しました。
2. 岩倉使節団(1871年〜1873年)
1871年10月、右大臣の岩倉具視を特命全権大使とし、参議の木戸孝允、大蔵卿の大久保利通らを副使とする使節団が、欧米に向かうことになりました。一行は書記官や留学生を含めて107人。留学生の中には、のちに女子教育に力を尽くす津田梅子ら女子留学生もいました。
政府の中心人物が長く日本を離れるため、使節団と留守政府のあいだでは、帰国するまで国内外の大きな改革は行わないことなど、12項目の約束が交わされました。
3. 朝鮮との関係と明治六年の政変
1871年、日本は清と対等な立場で日清修好条規を結びました。一方、朝鮮は、明治政府からの国交を求める文書の形式などを理由に、新しい関係を結ぶことを拒み続けていました。
留守政府では、西郷隆盛が自ら使節として朝鮮へ渡ることを主張し、板垣退助らもこれを支持します。武力を用いるべきだという主張もありました。しかし1873年に帰国した大久保利通らは、いま国内の改革を優先すべきだとして強く反対し、使節の派遣は中止されます。これにより西郷や板垣らは政府を去りました(明治六年の政変)。
政変の2年後、日本は軍艦を朝鮮沿岸に送り、1875年に江華島事件が起こります。これをきっかけに、1876年、日朝修好条規が結ばれました。この条約は、朝鮮を自主の国と認める一方、日本の領事裁判権を認めさせるなど、朝鮮にとって不平等な内容を含んでいました。
4. 士族はなぜ反乱を起こしたのか
| できごと | 士族にとっての意味 |
|---|---|
| 徴兵令1873年 | 戦うことが、武士だけの役目ではなくなった |
| 廃刀令1876年 | 刀を差すという身分の象徴が失われた |
| 秩禄処分1876年 | 家禄の支給が打ち切られ、代わりに金禄公債証書が渡された。収入の道を失う人が多かった |
政府は、士族に支給していた家禄が財政の大きな負担になっていたため、1876年に金禄公債証書発行条例を出し、家禄と賞典禄の支給をやめました。公債を元手に商売を始めて失敗する人も多く、生活に困る士族が増えます。1874年の佐賀の乱をはじめ、西日本各地で士族の反乱が起こりました。
5. 西南戦争(1877年)
政府を去った西郷隆盛は、鹿児島で私学校をつくり、士族の教育にあたっていました。私学校は大きな勢力となり、政府との対立が深まります。1877年1月、鹿児島県の士族が政府の弾薬庫などから武器を奪ったことをきっかけに、西郷を中心とする反乱が始まりました。
反乱軍は熊本城を包囲しますが、3月の田原坂の激戦で、人員と火力にまさる政府軍が防衛線を突破します。以後、反乱軍は守勢に回り、9月、政府軍が鹿児島を制圧して、半年以上に及んだ戦いは終わりました。
6. まちがえやすいところ
- 岩倉使節団は、観光旅行ではない。条約改正の交渉と、欧米の制度や産業の調査が目的だった。
- 「征韓論」は、一つのまとまった主張ではない。使節を送る案と武力を用いる案があり、後世の呼び方でもある。
- 明治六年の政変は、外交だけの対立ではない。国内改革をどの順で進めるかという争いでもあった。
- 西南戦争は、西郷隆盛の個人的な戦いではない。特権を失った士族全体の不満が背景にあった。
7. 1分で深掘り
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