四民平等と三つの改革
四民平等と三つの改革 まとめ
1. ひとことで言うと
国の仕組みは大きく変わったが、人びとの負担は重く、各地で反対の動きも起こった
新政府は、国を動かすためのお金、兵力、人材を、藩ではなく政府が直接確保する必要がありました。そのために行われたのが、身分制度の改革、地租改正、徴兵令、学制です。これらはばらばらの政策ではなく、中央集権の国をつくるという一つの目的でつながっています。一方で、どの改革も人びとに新しい負担を求めるものだったため、反対の一揆も各地で起こりました。
2. 身分の仕組みが変わる
政府は、江戸時代の身分の呼び方を改め、公家と大名を華族、武士を士族、百姓や町人を平民としました。平民も名字を名のることが認められ、住む場所や職業、結婚相手を自由に選べるようになります。1871年には戸籍法が定められ、翌年、身分ではなく住んでいる場所を単位とする戸籍がつくられました。
3. 地租改正(1873年)
江戸時代の年貢は、米で納めるもので、とれ高によって額が変わりました。これでは政府の収入が毎年変わってしまい、予算を立てることができません。
| 変えた点 | 中身 |
|---|---|
| 土地の所有者 | 地券を発行し、土地の所有者をはっきりさせた。地券をもつ人が納税者になった |
| 課税の基準 | とれ高ではなく、土地の値段(地価)を基準にした |
| 税率 | 地価の3パーセントを地租とした |
| 納め方 | 米ではなく、現金で納めることにした |
| 額の変動 | 豊作でも凶作でも、地租は増減しないことにした |
これによって、政府は毎年決まった収入を見こめるようになり、近代国家の財政の土台ができました。一方、農民にとっては、凶作の年でも決まった額を現金で納めなければならず、負担は重いものでした。米の値段が下がると、実質的な負担はさらに増えます。地価が高く決められたことや測量の負担への不満から、各地で地租改正反対一揆が起こり、政府は1877年に税率を2.5パーセントに引き下げました。
4. 徴兵令(1873年)
政府は、士族の軍隊ではなく、国民から集めた軍隊をつくろうとしました。徴兵令では、男子は満20歳で徴兵検査を受け、合格者の中から抽選で3年間の兵役につくこととされました。
それでも、働き手を取られる家にとっては大きな打撃であり、各地で徴兵に反対する一揆が起こりました。士族にとっては、戦うことが自分たちの役目ではなくなることを意味し、不満の一因になります。
5. 学制(1872年)
1872年、日本で初めての近代的な学校制度を定めた学制が公布されました。全国を8つの大学区に分け、その下に中学区、小学区を置き、それぞれに学校を設けるという計画です。6歳以上の子どもが学校で学ぶこととされ、男女が同じ内容を学ぶ点も、それまでの寺子屋とは異なっていました。
学校は急速に増え、1875年にはすでに全国で2万4千校あまりの小学校が開かれました。その多くは、寺子屋や私塾を作りかえたもので、寺や民家を借りた校舎が7割ほどを占めていました。
6. 4つの改革をまとめると
| 改革 | ねらい | 人びとの反応 |
|---|---|---|
| 身分の改革 | 身分による区別をなくし、人と土地を国が把握する | 制度は変わったが差別は残り、士族は特権を失っていった |
| 地租改正 | 安定した現金収入を得て、国の財政の土台をつくる | 負担が重く、各地で反対一揆が起こった |
| 徴兵令 | 藩ではなく国の軍隊をつくる | 働き手を取られるとして反対一揆が起こった |
| 学制 | 全国に学校を置き、国民の知識と力を高める | 費用や労働力の問題から、就学はなかなか進まなかった |
7. まちがえやすいところ
- 四民平等で、すぐに完全な平等になったのではない。制度上の区別はなくなったが、差別や格差は残った。
- すべての男性が兵士になったのではない。徴兵令には多くの免除規定があった。
- 学制が出てすぐに、子どもたちが学校へ通ったのではない。就学率が9割を超えるのは30年以上あとのこと。
- 地租改正は、年貢が地租に変わっただけではない。国の財政の土台そのものが変わった。
8. 1分で深掘り
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