四民平等と三つの改革

1分でわかる

四民平等と三つの改革

1871年〜1870年代
身分、税、軍隊、学校。新政府は、人びとの暮らしの土台をほとんど同時に作りかえました。何が変わり、何が変わらなかったのかを見ていきます。
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1分でわかる歴史明治時代

四民平等と三つの改革 まとめ

1. ひとことで言うと

身分の区別をなくし、税を現金で集め、兵士を国民から集め、学校を全国につくった。
国の仕組みは大きく変わったが、人びとの負担は重く、各地で反対の動きも起こった

新政府は、国を動かすためのお金、兵力、人材を、藩ではなく政府が直接確保する必要がありました。そのために行われたのが、身分制度の改革、地租改正、徴兵令、学制です。これらはばらばらの政策ではなく、中央集権の国をつくるという一つの目的でつながっています。一方で、どの改革も人びとに新しい負担を求めるものだったため、反対の一揆も各地で起こりました。

2. 身分の仕組みが変わる

政府は、江戸時代の身分の呼び方を改め、公家と大名を華族、武士を士族、百姓や町人を平民としました。平民も名字を名のることが認められ、住む場所や職業、結婚相手を自由に選べるようになります。1871年には戸籍法が定められ、翌年、身分ではなく住んでいる場所を単位とする戸籍がつくられました。

1871年の解放令同じ1871年、「えた」「ひにん」などの呼び名と身分を廃止し、身分も職業も平民と同じとする布告が出されました(解放令)。これにより、制度のうえでの差別はなくなりました。しかし、差別をなくすための取り組みはほとんど行われず、人びとの意識は変わりませんでした。布告の直後には、これに反発する周辺の住民による襲撃事件も起き、差別はその後も長く続きます。
家と女性1898年に施行された明治民法では、家を単位とする制度がとられ、戸主が家族に対して強い権限をもち、家の財産と地位は長男がひとりで受けつぐ家督相続が定められました。女性の地位は法のうえでも制限され、この仕組みは第二次世界大戦後まで続きます。

3. 地租改正(1873年)

江戸時代の年貢は、米で納めるもので、とれ高によって額が変わりました。これでは政府の収入が毎年変わってしまい、予算を立てることができません。

変えた点中身
土地の所有者地券を発行し、土地の所有者をはっきりさせた。地券をもつ人が納税者になった
課税の基準とれ高ではなく、土地の値段(地価)を基準にした
税率地価の3パーセントを地租とした
納め方米ではなく、現金で納めることにした
額の変動豊作でも凶作でも、地租は増減しないことにした

これによって、政府は毎年決まった収入を見こめるようになり、近代国家の財政の土台ができました。一方、農民にとっては、凶作の年でも決まった額を現金で納めなければならず、負担は重いものでした。米の値段が下がると、実質的な負担はさらに増えます。地価が高く決められたことや測量の負担への不満から、各地で地租改正反対一揆が起こり、政府は1877年に税率を2.5パーセントに引き下げました。

4. 徴兵令(1873年)

政府は、士族の軍隊ではなく、国民から集めた軍隊をつくろうとしました。徴兵令では、男子は満20歳で徴兵検査を受け、合格者の中から抽選で3年間の兵役につくこととされました。

多くの免除規定があった徴兵令は国民皆兵をうたっていましたが、役所に勤める人、官立や公立の学校の生徒、医術などを修行中の人、一家の主人、そして270円の代人料を納めた人などは、兵役を免除されました。そのため、実際に兵役についたのは平民の次男や三男などが中心で、その数は多くありませんでした。

それでも、働き手を取られる家にとっては大きな打撃であり、各地で徴兵に反対する一揆が起こりました。士族にとっては、戦うことが自分たちの役目ではなくなることを意味し、不満の一因になります。

5. 学制(1872年)

1872年、日本で初めての近代的な学校制度を定めた学制が公布されました。全国を8つの大学区に分け、その下に中学区、小学区を置き、それぞれに学校を設けるという計画です。6歳以上の子どもが学校で学ぶこととされ、男女が同じ内容を学ぶ点も、それまでの寺子屋とは異なっていました。

学校は急速に増え、1875年にはすでに全国で2万4千校あまりの小学校が開かれました。その多くは、寺子屋や私塾を作りかえたもので、寺や民家を借りた校舎が7割ほどを占めていました。

すぐに全員が通ったわけではない就学率は、学制の翌年(1873年)で男女平均28.1パーセント、1877年でも39.9パーセントでした。とくに女子は1873年で15.1パーセントと低く、50パーセントを超えるのは1897年ごろです。授業料や学校をつくる費用の負担、子どもが働き手であったこと、学校は必要ないという考え方などが理由でした。政府は1879年に教育令、1886年に学校令と制度を変えながら整備を進め、1900年に授業料を原則廃止、1907年には義務教育が6年になります。就学率は1905年ごろに約96パーセントに達しました。

6. 4つの改革をまとめると

改革ねらい人びとの反応
身分の改革身分による区別をなくし、人と土地を国が把握する制度は変わったが差別は残り、士族は特権を失っていった
地租改正安定した現金収入を得て、国の財政の土台をつくる負担が重く、各地で反対一揆が起こった
徴兵令藩ではなく国の軍隊をつくる働き手を取られるとして反対一揆が起こった
学制全国に学校を置き、国民の知識と力を高める費用や労働力の問題から、就学はなかなか進まなかった

7. まちがえやすいところ

  • 四民平等で、すぐに完全な平等になったのではない。制度上の区別はなくなったが、差別や格差は残った。
  • すべての男性が兵士になったのではない。徴兵令には多くの免除規定があった。
  • 学制が出てすぐに、子どもたちが学校へ通ったのではない。就学率が9割を超えるのは30年以上あとのこと。
  • 地租改正は、年貢が地租に変わっただけではない。国の財政の土台そのものが変わった。

8. 1分で深掘り

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関連テーマ:華族/士族/平民/戸籍/解放令/地券/代人料/就学率/明治民法

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