薩長同盟と幕府の弱体化
薩長同盟と幕府の弱体化 まとめ
1. ひとことで言うと
幕府は立て直しを急いだが、その権威は大きく揺らいでいった
対立していた薩摩と長州は、1866年1月、京都で協力を約束しました。同じ年に幕府が始めた第二次長州征討では、薩摩は出兵せず、長州は各地で幕府軍を退けます。戦いのさなかに将軍の徳川家茂が亡くなり、幕府は戦いをやめました。新たに将軍となった徳川慶喜は、フランスの協力を得て改革を進めますが、幕府が全国の大名を従える力は、目に見えて弱まっていました。
2. 薩長同盟とは
1866年1月、京都の薩摩藩家老の小松帯刀の屋敷で、長州藩の木戸孝允と、薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛らが話し合い、両藩の協力を約束しました。木戸はその内容を6か条にまとめて坂本龍馬に手紙で送り、龍馬はその裏に「内容にまちがいない」と朱で書いて返しました。この手紙は、今も宮内庁書陵部に残されています。
3. 薩長同盟を、どう見るか
薩長同盟は、長いあいだ「坂本龍馬や中岡慎太郎の仲介で、薩摩と長州が幕府を倒すために結んだ同盟」と説明されてきました。
いずれにしても、この約束によって薩摩と長州が敵対をやめ、協力する関係に入ったことは、その後の政治に大きな影響を与えました。ただし、この時点で幕府を倒すことが決まったわけではありません。
4. 第二次長州征討と将軍家茂の死
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1866年6月 | 幕府が第二次長州征討を始める。薩摩は出兵を断る |
| 1866年7月 | 将軍の徳川家茂が大坂城で亡くなる |
| 1866年8月 | 幕府は戦いをやめることを決め、まもなく休戦する |
| 1866年12月 | 徳川慶喜が15代将軍になる。孝明天皇が亡くなる |
長州は、西洋式の軍備を整えた軍で各地の戦いに勝ちました。全国の大名を動員したはずの幕府が、一つの藩を従わせられなかったことは、幕府の力の衰えを広く知らせる結果になりました。さらに、幕府と協力する形を支持していた孝明天皇が亡くなり、朝廷の状況も変わっていきます。
5. 幕府も、立て直しを進めていた
幕府は、何もせずに衰えていったのではありません。西洋の技術や制度を取り入れる努力を重ねていました。
| 分野 | 幕府の取り組み |
|---|---|
| 造船 | フランスの協力で、横須賀に大きな造船所(横須賀製鉄所)の建設を始めた。この施設は明治政府に引きつがれた |
| 軍隊 | フランスから軍事教官を招き、西洋式の陸軍を育てた。軍艦も買い入れて海軍を整えた |
| 教育 | 洋学の研究・教育機関(のちの開成所)を整え、外国語や西洋の学問を学ばせた。留学生も送った |
| 外交 | ヨーロッパに使節を送り、パリ万国博覧会にも参加した |
慶喜は、こうした改革をさらに進め、幕府の立て直しを図りました。「古い幕府」と「新しい薩長」という見方では、この時代の動きはとらえられません。
6. 社会も揺れていた
戦いや貿易による物価の上昇で、人びとの暮らしは苦しくなりました。1866年ごろには、豪商や豪農をおそう打ちこわしや、「世直し」を求める一揆が各地で起こります。1867年には、「ええじゃないか」と唱えて人びとが踊り歩く騒ぎも広がりました。
7. まちがえやすいところ
- 坂本龍馬だけが、薩摩と長州を結びつけたのではない。薩摩の小松帯刀・西郷隆盛と長州の木戸孝允らが話し合って決めた。
- 薩長同盟を結んだ瞬間に、倒幕が決まったのではない。中心は、長州の立場の回復への協力だった。
- 幕府は、何もしなかったのではない。造船所や西洋式の軍隊など、近代化を進めていた。
- 幕府の弱まりは、一つの原因によるものではない。長州征討の失敗、将軍の死、朝廷の変化、社会の混乱が重なった。
8. 1分で深掘り
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