足利義満と日明貿易

1分でわかる

足利義満と日明貿易

1368年〜15世紀前半
3代将軍・足利義満は、なぜ室町幕府の力を大きくできたのか。なぜ中国の明と貿易を始めたのか。
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1分でわかる歴史室町時代

足利義満と日明貿易 まとめ

1. ひとことで言うと

南北朝を一つにし、有力な守護をおさえ、朝廷の中でも最高の地位にのぼり、
明との正式な貿易も開いた

足利義満は、わずか11歳で3代将軍になりました。はじめは管領の細川頼之らに支えられながら、やがて自ら政治を動かし、南北朝の合一、有力な守護の力の抑え込み、明との国交と貿易など、室町幕府がもっとも安定した時代をつくりました。ただし、それは義満ひとりの力ではなく、守護たちとの協力や、それまでの積み重ねの上に成り立ったものでした。

2. 義満が進めたこと

年できごと
1368年11歳で将軍になる
1378年京都の室町に、将軍の住まい(花の御所)を建てる
1391年大きな力をもった山名氏を戦いでおさえる
1392年南朝と北朝を一つにする
1394年将軍の位を子にゆずり、太政大臣になる
1397年京都の北山に、のちに金閣とよばれる建物をふくむ山荘を建てる
1399年西国の有力な守護・大内氏をおさえる
1404年明との貿易が始まる
1分でわかる建武の新政と南北朝約60年続いた南北朝の争い

3. なぜ、義満は強くなれたのか

南北朝の争いを終わらせた長く続いた争いを終わらせたことで、幕府を中心とする政治の形がはっきりしました。
有力な守護のバランスをとった大きくなりすぎた守護を戦いでおさえる一方、ほかの守護たちとは協力関係を保ちました。幕府は、将軍と守護たちの力のつり合いの上に成り立っていたのです。1分でわかる室町幕府と守護大名将軍と守護の関係
朝廷の中でも地位を高めた義満は太政大臣にまでのぼり、それまで朝廷がもっていた京都の町の支配などの権限も、幕府のもとに取りこんでいきました。

4. なぜ、明と貿易をしたのか

倭寇の問題14世紀ごろ、朝鮮半島や中国の沿岸をおそう海の武装集団が活動していました。これを倭寇とよびます。1368年に建国した明は、倭寇を取りしまるよう日本に求めていました。
明との貿易のしくみ明は、自由な海外貿易を認めず、明の皇帝に使いを送り、貢ぎ物をささげる国(朝貢)とだけ貿易を行いました。明と正式に貿易をするには、この形に従う必要があったのです。
大きな利益明からは、銅銭(明銭)、生糸、絹織物、書物などが入ってきました。とくに大量の銅銭は、日本の商業を大きく支えました。日本からは、刀剣、銅、硫黄、扇などが送られました。

5. 勘合と「日本国王」

勘合:正式な船のしるし倭寇と正式な貿易船を見分けるため、明が発行した合い札を勘合といいます。そのため、日明貿易は勘合貿易ともよばれます。
「日本国王」は、明から与えられた称号義満は、明の皇帝から「日本国王」の称号を受けました。これは、明の皇帝を頂点とする外交の決まりの中で、その臣下として認められた日本の代表者、という意味の称号です。日本の天皇がいなくなったわけでも、義満が国内で天皇に代わったわけでもありません。

明の皇帝の臣下という形をとることには、当時も批判がありました。4代将軍の足利義持は貿易をいったん取りやめ、6代将軍の義教のときに再開されています。

6. 東アジアの中の日本

このころ、朝鮮半島では朝鮮(李氏朝鮮)が建国され、日本とのあいだでも貿易が行われました。沖縄では、15世紀前半に琉球王国が生まれ、日本・中国・朝鮮・東南アジアを結ぶ中継貿易で栄えました。元寇のころとはちがい、海をこえた交流が大きく広がった時代でした。1分でわかる元寇と鎌倉幕府ひとつ前の時代の、大陸との関係

7. まちがえやすいところ

  • 日明貿易は「対等な国どうしの自由な貿易」ではない。明の皇帝に朝貢する形をとって行われた。
  • 「日本国王」は、明から見た称号。今の意味での「日本の国王」とは同じではない。
  • 義満は、何でも思い通りにできたのではない。守護たちとの協力とつり合いの上で力をふるった。
  • 金閣は、義満の山荘の中の建物のひとつ。いまの金閣は、1950年に焼けたあと再建されたもの。

8. 1分で深掘り

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関連テーマ:花の御所/金閣/勘合/倭寇/琉球王国

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