室町の村と町・一揆

1分でわかる

室町の村と町・一揆

14世紀〜15世紀
政治の中心から離れた村や町で、人びとの暮らしはどう変わったのか。一揆は、ただの暴動だったのか。
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1分でわかる歴史室町時代

室町の村と町・一揆 まとめ

1. ひとことで言うと

作物がよくとれるようになり、物やお金の動きが活発になる中で、
村の人びとは寄り合ってまとまり、自分たちの暮らしを守ろうとした

室町時代には、農業の技術が進み、商業や交通も盛んになりました。村では、人びとが話し合って決まりをつくり、年貢や争いに共同で向き合う「惣村」が生まれます。ときには、借金の帳消しや年貢の引き下げを求めて、人びとがまとまって行動を起こしました。これが一揆です。

2. 農業と商業が活発になった

分野変化
農業米の裏作に麦をつくる二毛作が広がり、牛や馬を使った耕作、草や灰などの肥料の工夫も進んだ。麻や茶など、売るための作物もつくられた
市決まった日に開かれる市(定期市)が、各地で開かれる回数を増やした
お金明から入った銅銭などが広く使われた。お金を貸す土倉や酒屋が、大きな力をもった
運送馬で荷物を運ぶ馬借や、港で物の保管や運送を行う問丸が活躍した
同業者商人や職人は座とよばれる仲間をつくり、寺社や貴族の保護を受けて商売の権利を守った
1分でわかる足利義満と日明貿易明から入った銅銭と、商業の広がり

3. 惣村:まとまる村

寄合で決める村の人びとは、寄合とよばれる集まりで話し合い、村のおきてを定めました。用水や山林の使い方、祭り、村の中での争いの解決などを、自分たちで決めていきました。
年貢も、村でまとめて荘園の持ち主や守護に対して、年貢を村としてまとめて引き受けることもありました。村が一つのまとまりとして、外の力と向き合うようになったのです。
ただし、みんな平等ではなかった村を動かしたのは、有力な農民などが中心でした。村の中にも身分や立場のちがいがあり、今の民主主義と同じものではありません。

4. 一揆は、ただの暴動?

「一揆」は、もともと「心を一つにする」という意味の言葉です。人びとは神仏に誓い合ってまとまり、要求を示しました。武力を使うこともありましたが、話し合いや交渉を求める行動でもあったのです。

一揆年・場所ようす
正長の土一揆1428年/近江・京都など近江の馬借の動きをきっかけに、人びとが借金の帳消し(徳政)を求めて、京都周辺の土倉や酒屋をおそった
嘉吉の土一揆1441年/京都周辺将軍が殺された直後の混乱の中で起こり、幕府に徳政令を出させた
山城国一揆1485年/山城南部地元の武士(国人)と農民がまとまり、争っていた守護の畠山氏の軍を国の外へ出させ、約8年にわたって自分たちで地域を治めた
加賀の一向一揆1488年/加賀浄土真宗(一向宗)の門徒たちが守護を倒し、約100年にわたって国を治めた
へえ石に刻まれた「借金帳消し」奈良県の柳生には、正長の土一揆のころに、借金がなくなったことを刻んだとされる碑文が残っています。

5. 町も力をつけた

港町の堺(いまの大阪府)や博多(いまの福岡県)では、豊かな商人たちが話し合いで町を運営しました。京都でも、町に住む人びと(町衆)が力をつけ、応仁の乱で途絶えた祇園祭を復活させています。1分でわかる応仁の乱から戦国時代へ京都を焼いた11年の戦乱

6. まちがえやすいところ

  • 一揆は、ただの暴動ではない。誓い合ってまとまり、要求を示す行動だった。
  • 惣村の自治は、今の民主主義とは同じではない。有力な農民が中心で、村の中にも立場のちがいがあった。
  • 土一揆と国一揆、一向一揆はちがう。土一揆は主に農民などが徳政を求めたもの。国一揆は国人と農民が地域を治めたもの。一向一揆は浄土真宗の門徒が中心。
  • 土倉・酒屋は、お金を貸す商人だった。そのため、徳政を求める一揆でおそわれた。

7. 1分で深掘り

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関連テーマ:惣村/寄合/正長の土一揆/山城国一揆/堺/町衆

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