大正の対外政策と植民地
大正の対外政策と植民地 まとめ
1. ひとことで言うと
同時に、朝鮮と台湾の支配は続き、中国での権益も手放さなかった
第一次世界大戦に勝った側に立った日本は、パリ講和会議に五大国の一つとして参加し、山東省の旧ドイツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を得ました。しかしその同じ1919年、朝鮮では三・一独立運動が、中国では五四運動が起こります。その後、ワシントン会議で軍備を制限し、列強との協調を進めますが、植民地支配と中国での権益はそのまま続きました。国際協調と植民地支配は、同時に存在していたのです。
2. シベリア出兵(1918年〜)
1917年のロシア革命で成立したソビエト政権が、ドイツと単独で講和に動いたため、イギリスとフランスは危機感をもち、日本とアメリカにシベリアへの派兵を求めました。アメリカが、シベリアにいたチェコスロバキア軍を救出するために日米共同で派兵する方針を決めると、日本も1918年8月2日に出兵を宣言します。
3. パリ講和会議とベルサイユ条約(1919年)
1919年1月から開かれたパリ講和会議に、日本は五大国の一員として参加しました。首席全権は西園寺公望でしたが、健康の事情から牧野伸顕が事実上その役割を担います。
日本が決めていた方針は、赤道以北のドイツ領南洋諸島を得ること、山東省のドイツ権益をゆずり受けること、そして国際連盟の規約に人種差別を禁止する条項を入れることでした。6月28日に調印されたベルサイユ条約で、日本は山東の旧ドイツ権益を引きつぎ、南洋諸島については国際連盟から統治を任される委任統治の権利を得ます。人種差別撤廃の提案は、賛成多数を得ながらも採用されませんでした。
国際連盟が発足すると、日本は常任理事国の一つになります。
4. 1919年、朝鮮と中国で何が起きたか
5. ワシントン会議と国際協調(1921年〜1922年)
アメリカの提唱で、1921年11月から1922年2月まで、ワシントン会議が開かれました。軍備の制限と、極東・太平洋の問題が話し合われます。
| 条約 | 内容 |
|---|---|
| 四か国条約1921年 | 日本・アメリカ・イギリス・フランスが、太平洋の島々についての権利を尊重し、争いは話し合いで解決すると約束した。これにより日英同盟は終わった |
| 九か国条約1922年 | 中国の主権と独立を尊重し、各国が中国で商工業上の機会を等しくもつことなどを定めた |
| 海軍軍縮条約1922年 | 日・英・米・仏・伊の主力艦の総トン数の比率を、5対5対3対1.67対1.67と定めた |
日本は山東省の権益を中国に返し、軍備の拡張にも歯止めがかかります。こうした枠組みの中で列強と協調する外交は、のちに外相となる幣原喜重郎の名から幣原外交ともよばれました。
6. 植民地はどうなっていたか
| 地域 | 大正期のようす |
|---|---|
| 朝鮮 | 1910年の併合以降、総督府が統治。三・一独立運動のあと統治方針が改められたが、独立は認められず、言論や運動への取りしまりは続いた |
| 台湾 | 1895年以来の総督府による統治。1919年に文官総督が置かれ、教育や産業の制度が整えられたが、政治参加は大きく制限されていた |
| 南樺太 | 日露戦争後に得た地域として、開発と移住が進んだ |
| 南洋諸島 | 第一次世界大戦後、国際連盟の委任統治領となり、南洋庁が置かれた |
国内では選挙権が広がっていた同じ時期に、これらの地域の人びとは、その選挙の対象になっていませんでした。国内の民主化と植民地支配は、切り離さずに一緒に見る必要があります。1分でわかる韓国併合と植民地支配の拡大明治期からの流れ
7. まちがえやすいところ
- 国際協調が進んだ=日本が平和主義になった、ではない。植民地支配と大陸の権益は続いていた。
- 三・一独立運動は、一部の人の暴動ではない。朝鮮全土に広がった独立を求める運動だった。
- 五四運動は、単なる反日運動ではない。中国の民族運動・政治運動の出発点となった。
- シベリア出兵は、すぐに終わったのではない。他国の撤兵後も続き、国内で批判を受けた。
8. 1分で深掘り
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