大正デモクラシー
大正デモクラシー まとめ
1. ひとことで言うと
大正のころに広がった、政治に民衆の声を反映させようとする考え方と、いくつもの運動をまとめてよぶ言い方
大正時代には、藩閥や官僚だけで政治を決めることへの批判、普通選挙を求める運動、労働者や女性、農民の権利を求める動きが、同じ時期に広がりました。こうした動きをあとからまとめて「大正デモクラシー」とよびます。当時の人が全員この名前で自分たちの活動を呼んでいたわけではなく、歴史を整理するための言葉です。中身はいくつもの別々の運動に分かれています。
2. なぜ広がったのか
3. 民本主義(吉野作造)
政治学者の吉野作造は、1916年1月の雑誌『中央公論』に「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」という論文を発表しました。ここで吉野は、デモクラシーに「民本主義」という訳語をあて、普通選挙の実施と政党政治の実現を主張します。吉野は、大正デモクラシーを代表する論客となりました。
4. 天皇機関説(美濃部達吉)
憲法学者の美濃部達吉は、国を法のうえでの一つの団体(法人)と考え、天皇はその最高の機関として、憲法の定めにしたがって統治権を行使する、という学説を唱えました。これが天皇機関説です。この考え方は、議会や内閣の役割を重く見ることにつながり、大正から昭和の初めにかけて、学界や官僚の間で広く受け入れられていました。
ただし、この学説は昭和に入ると激しく攻撃され、1935年に政府が公式に否認することになります。大正期に広く認められていた考え方が、のちに否定されたという点は、時代の変化を示しています。
5. 「大正デモクラシー」の中身は一つではない
| 動き | だれが | 何を求めたか |
|---|---|---|
| 護憲運動 | 政党、新聞、都市の人びと | 藩閥や特権的な内閣をやめ、議会中心の政治にすること |
| 普選運動 | 政党関係者、労働団体、学生、記者など | 納税額による制限をなくし、選挙権を広げること |
| 労働運動 | 工場などで働く人びと | 賃金の引き上げ、労働時間の短縮、組合を認めること |
| 女性運動 | 女性の団体 | 政治集会に参加する自由、参政権、教育と地位の改善 |
| 農民運動 | 小作人など | 小作料の引き下げ、耕作の権利を守ること |
| 被差別部落の運動 | 全国水平社(1922年) | 差別の撤廃と、自分たちの力による解放 |
それぞれ主体も目的も異なります。互いに協力することもあれば、対立することもありました。すべてを一つの運動として扱うと、実際の姿が見えなくなります。1分でわかる労働運動と女性運動それぞれの運動の中身
6. 普選運動の広がり
普通選挙を求める運動自体は、明治30年代から続いていました。1911年には普選の法案が衆議院を通過したこともあります。その後は取りしまりの対象となって一時止まりますが、1918年の米騒動や翌年のパリ講和会議をきっかけに再び盛り上がり、東京や京阪神の都市でデモが行われるようになりました。
1920年1月には全国普選連合会が結成され、政党関係者に加えて労働団体、学生団体、記者など60以上の団体が参加します。この広がりが、1925年の法改正につながっていきました。1分でわかる男子普通選挙法と治安維持法運動は何を実現し、何を実現しなかったか
7. まちがえやすいところ
- 「大正デモクラシー」という団体や運動があったのではない。複数の動きをまとめた、あとからの呼び方。
- 民本主義は、今の民主主義と同じではない。統治権が天皇にあるという憲法の枠の中で考えられた。
- 吉野作造は、天皇制を否定したのではない。憲法の枠内で、政治に民意を反映させることを求めた。
- 思想が広まれば制度が変わる、という単純な話でもない。実際の法改正には、政党の対立や取引が関わった。
8. 1分で深掘り
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