労働運動と女性運動
労働運動と女性運動 まとめ
1. ひとことで言うと
働き方、女性の権利、小作料、差別の撤廃など、暮らしに直結する要求が同時に広がった
大戦景気で工場が増え、都市で働く人が急に多くなりました。しかし物価は上がり、戦後には不況も来ます。そうした中で、労働組合がつくられ、ストライキが増えました。女性たちは、政治の集会に参加することさえ禁じられていた状態を変えようと動きます。農村では小作料の引き下げを求める争いが増え、差別の撤廃を求める全国水平社も生まれました。これらは別々の主体による、別々の運動です。
2. 労働運動
1912年、鈴木文治らが友愛会をつくりました。はじめは労働者が助け合うための団体で、労使の協調を掲げていましたが、大戦景気と物価上昇の中で組合としての性格を強めていきます。友愛会は1919年に大日本労働総同盟友愛会、1921年に日本労働総同盟と改称しました。
1920年5月2日には、東京の上野公園で日本で最初のメーデーが開かれます。8時間労働制の実施、失業の防止、最低賃金法の制定などが掲げられました。
3. 女性運動
1911年、平塚らいてうらが青鞜社をつくり、女性の文芸誌『青鞜』を刊行しました。創刊号に平塚が書いた「元始、女性は太陽であった」は、日本の女権宣言といわれます。
1920年、平塚らいてうと市川房枝らは新婦人協会を結成し、治安警察法第5条の改正運動を起こしました。
| 治安警察法第5条 | 内容と変化 |
|---|---|
| 1900年の制定時 | 女性が政治結社に加入することを禁じ、女性が政治演説会に参加することも禁じた |
| 1922年の改正 | 政治演説会への参加を禁じる部分から女性が除かれ、集会に出られるようになった |
| 残った制限 | 政治結社への加入の禁止は残り、その撤廃を求める運動が続いた |
1924年には婦人参政権獲得期成同盟会が結成され、市川房枝はその中心人物となります。しかし、1925年の普通選挙法でも女性に選挙権は認められませんでした。女性が投票できるようになるのは、第二次世界大戦後の1945年の改正を待つことになります。
4. 農村の運動
戦後の不況で農産物の値段が下がると、小作料の負担が重くのしかかりました。小作人が地主に小作料の引き下げなどを求める小作争議が各地で増えていきます。1922年には日本農民組合が結成され、争議を組織的に進めるようになりました。
農村の問題は、都市の労働問題とは事情が異なりますが、どちらも生活の条件をめぐる要求だという点では共通しています。
5. 社会主義と差別撤廃の運動
6. これらは一つの運動ではない
労働運動は働く条件を、女性運動は女性の権利を、農民運動は小作料や耕作の権利を、水平社は差別の撤廃を求めました。社会主義の運動は社会の仕組みそのものを変えようとしています。求めるものも、支持する人びとも異なりました。
普通選挙を求める点では重なることもありましたが、たとえば普選が実現しても女性には選挙権がなかったように、一つの成果がすべての運動の目標になるわけではありません。まとめて「大正デモクラシー」とよぶときは、この中身のちがいを忘れないことが大切です。
7. まちがえやすいところ
- 社会運動は、選挙権を求めるだけの動きではない。賃金、労働時間、小作料、差別など、暮らしの条件が中心だった。
- 女性運動は、いきなり参政権から始まったのではない。まず政治集会に参加する自由を求めるところからだった。
- 1925年の普通選挙法で、女性も投票できるようになったのではない。女性の選挙権は1945年まで認められなかった。
- 労働組合は、法律で守られていたのではない。取りしまりの対象になりながら活動していた。
8. 1分で深掘り
次に読む
1分でわかる男子普通選挙法と治安維持法運動の広がりと、取りしまりの強化 1分でわかる大正デモクラシーこれらの運動をまとめてよぶ言葉 ← 大正時代にもどる関連テーマ:友愛会/鈴木文治/日本労働総同盟/メーデー/青鞜/平塚らいてう/新婦人協会/市川房枝/日本農民組合/全国水平社
コメント