分国法と領国支配

1分でわかる

分国法と領国支配

15世紀末〜16世紀
戦国大名は、戦うだけでなく、自分の国をどう治めていたのか。土地、年貢、兵、裁判、そして独自の法を見ていきます。
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1分でわかる歴史戦国時代

分国法と領国支配 まとめ

1. ひとことで言うと

土地を調べ、年貢と兵の数を決め、争いを裁き、法を定める。
戦国大名は、自分の領国に「小さな国」のようなしくみをつくった

戦国大名が戦い続けるには、兵やお金、食料を安定して集めるしくみが必要でした。そのため大名たちは、領国の土地を調べ、家臣に土地を与える代わりに兵を出させ、争いを自分の裁判で解決させようとしました。こうした決まりをまとめたものが、分国法とよばれる大名ごとの法です。

2. 戦国大名は、何を治めたのか

分野中身
土地家臣や村に、土地の広さや収穫を申告させたり(指出)、役人が調べたり(検地)して、領国の土地をつかもうとした
年貢土地の大きさや価値に応じて、村から年貢を取った
軍役家臣に与えた土地の大きさに応じて、戦いのときに出す兵の数を決めた
裁判家臣どうしや村どうしの争いを、大名の裁判で解決させた
町と交通城下町や市を整え、道や関所を管理した

土地の価値を銭の額(貫高)で表し、それをもとに年貢や軍役を決めた大名もいます。関東の北条氏は、早くから検地を行ったことで知られています。

3. 分国法:大名ごとの法

分国法は、大名が家臣や領国の人びとに向けて定めた法です。鎌倉幕府の御成敗式目などを参考にしながら、それぞれの国の事情に合わせてつくられました。1分でわかる承久の乱と執権政治武士のための最初の法、御成敗式目

分国法大名・国ようす
今川仮名目録今川氏/駿河・遠江(いまの静岡県)1526年に定められた。土地の争いや、家臣どうしのけんかなどについての決まり
塵芥集伊達氏/陸奥(いまの東北地方南部)1536年に定められた。170をこえる条文があり、とくに細かい
甲州法度之次第武田氏/甲斐(いまの山梨県)武田信玄のころに定められた。今川仮名目録の影響も受けている

大名によっては、家臣の心がまえを示した家訓も残しています。越前の朝倉氏の家訓には、有力な家臣を城下に住まわせる考え方が書かれていたとされます。1分でわかる城と城下町・戦国の経済家臣や商人を、城の下に集める

4. 喧嘩両成敗:なぜ両方を罰したのか

いくつかの分国法には、けんかをした者は、理由にかかわらず両方を罰するという決まりがありました(喧嘩両成敗)。

ねらいは「自分で仕返しさせない」ことそれまでの社会では、争いを当事者どうしの力で解決する(仕返しをする)ことが当たり前でした。しかし、家臣どうしが勝手に争っては、大名の国はまとまりません。争いは大名の裁判にゆだねなさい、という考え方を徹底させるための決まりでした。

5. 今の国家と同じではない

戦国大名の領国は「小さな国」のようでしたが、今の国家と同じではありません。

  • 家臣の自立性が強かった。国衆とよばれる地元の武士は、自分の領地をかなり自由に治めていた。
  • 村や寺社にも自分たちの決まりがあった。大名は、村と交渉しながら年貢を集めることも多かった。
  • 法がすべての人に同じように届いたわけではない。分国法の中心は、家臣や土地に関わる決まりだった。

6. まちがえやすいところ

  • 分国法は、全国共通の法ではない。大名ごとに、自分の領国のために定めた法。
  • すべての戦国大名が分国法をつくったのではない。まとまった法が残っている大名は、一部にかぎられる。
  • 喧嘩両成敗は、ただの厳しい罰ではない。争いを大名の裁判にまとめるための決まりだった。
  • 戦国大名の検地と、のちの豊臣秀吉の検地は同じではない。やり方や広さがちがう。

7. 1分で深掘り

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関連テーマ:今川仮名目録/塵芥集/甲州法度之次第/喧嘩両成敗/貫高

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