承久の乱と執権政治

1分でわかる

承久の乱と執権政治

1199年〜13世紀半ば
なぜ将軍ではなく、北条氏が幕府の中心になったのか。承久の乱で、朝廷と幕府の関係はどう変わったのか。
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1分でわかる歴史鎌倉時代

承久の乱と執権政治 まとめ

1. ひとことで言うと

頼朝の死後、北条氏が執権として幕府を動かすようになり、
承久の乱に勝って、幕府の力は西国にまで広がった

頼朝が亡くなると、幕府の中では有力な御家人どうしの争いが続きました。その中で勝ち残ったのが、頼朝の妻・北条政子の実家の北条氏です。1221年、後鳥羽上皇が兵を挙げると(承久の乱)、幕府はこれに勝ち、朝廷との力関係は大きく変わりました。そのあと北条泰時は、話し合いと法にもとづく政治を進めていきます。

2. 北条氏が中心になるまで

  1. 1199年頼朝が亡くなり、子の頼家が跡を継ぐ。有力な御家人13人が話し合って政治を進めるようになる。
  2. 争いが続く御家人どうしの争いの中で、有力者が次々に倒れる。頼家も将軍の地位を追われる。
  3. 1203年ごろ頼家の弟・実朝が将軍となり、政子の父・北条時政が政治の実権をにぎる。この地位が「執権」とよばれるようになる。
  4. 1219年実朝が暗殺され、源氏の将軍は3代で途絶える。京都の摂関家から、幼い将軍が迎えられる。
  5. 北条義時と政子時政の子・義時が執権として幕府を動かし、政子は「尼将軍」とよばれるほどの重みをもった。

北条氏が将軍にならなかったのは、将軍を支える執権という立場で、十分に幕府を動かせたからでもあります。将軍は、その後も形の上では幕府の頂点にい続けました。

3. 1221年:承久の乱

後鳥羽上皇の挙兵和歌や武芸にすぐれ、朝廷の力を取りもどそうとしていた後鳥羽上皇は、実朝の死後、幕府との関係が悪くなる中で、北条義時を討つよう命じて兵を挙げました。上皇のねらいは、幕府そのものを倒すことではなく、義時を取り除くことだったとみる考えもあります。
政子の呼びかけ上皇の命令に、御家人たちは動揺しました。政子は、頼朝から受けた御恩を思い起こすよう御家人たちに訴えたと伝えられます。幕府は、大軍を京都へ向かわせました。
一か月ほどで決着幕府軍は京都を占領し、後鳥羽上皇は隠岐へ流されました。上皇の側には、京都にいた武士や一部の御家人も加わっており、武士どうしの戦いでもありました。

4. 承久の乱で、何が変わった?

変化内容
六波羅探題京都に置かれ、朝廷の動きを見張り、西国の武士をまとめた
西国へ上皇の側についた者の土地を取り上げ、手がらを立てた御家人を地頭にした。幕府の力が西国にも広がる
皇位にも幕府が、天皇の位を継ぐ人の決定にもかかわるようになる

ただし、朝廷が力をすべて失ったのではありません。天皇や上皇、貴族は京都で政治を続け、荘園の支配や儀式、文化の中心であり続けました。朝廷と幕府が並び立つ形は、そのあとも続きます。

5. 北条泰時と御成敗式目

話し合いの政治義時の子・泰時は、執権を補佐する連署や、有力な御家人などからなる評定衆を置き、大事なことを話し合いで決めるしくみを整えました。
1232年、御成敗式目承久の乱のあと、西国に地頭が増え、土地をめぐる争いも増えました。泰時は、頼朝以来の先例や、武士の社会の「道理」をもとに、裁判のよりどころとなる51か条の法をまとめました。武士のためにつくられた、最初のまとまった法です。

御成敗式目は、主に幕府の支配する御家人の社会に向けたもので、朝廷や荘園の持ち主の法を否定したものではありませんでした。1分でわかる御家人と鎌倉幕府のしくみ裁判が、なぜ幕府の大切な仕事だったのか

6. まちがえやすいところ

  • 執権は、将軍ではない。将軍を助けるという立場で、幕府の政治を動かした。
  • 承久の乱で、朝廷がなくなったのではない。力関係は変わったが、朝廷は京都で続いた。
  • 承久の乱は、「朝廷対武士」だけの戦いではない。上皇の側にも武士がいた。
  • 御成敗式目は、全国すべての人のための法ではない。主に御家人の社会に向けたもの。

7. 1分で深掘り

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関連テーマ:北条政子/北条義時/後鳥羽上皇/六波羅探題/北条泰時

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