鎌倉幕府はなぜ滅びた?
鎌倉幕府はなぜ滅びた? まとめ
1. ひとことで言うと
いくつもの変化が重なったところに、後醍醐天皇の挙兵が火をつけた
鎌倉幕府は、将軍と御家人の「御恩と奉公」の結びつきに支えられていました。13世紀の終わりごろから、その結びつきを支える土地と暮らしがゆらぎ、幕府の中では北条氏の本家に力が集まっていきます。朝廷でも、天皇の位をめぐる争いが続いていました。こうした中で後醍醐天皇が幕府を倒そうと動き、幕府に仕えていた有力な武士たちまでがそれに加わったことで、1333年、鎌倉幕府は滅びました。
2. 重なっていた背景
3. 永仁の徳政令(1297年)
幕府は、御家人を救うために、売ったり質に入れたりした土地を、御家人が取りもどせるようにする命令を出しました。しかし、そのあと御家人はお金を借りにくくなるなど、混乱も生まれ、命令の一部は翌年には取りやめられました。幕府にとって、御家人の暮らしを立て直すことは簡単ではありませんでした。
4. 幕府が倒れるまで
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1318年 | 後醍醐天皇が即位する |
| 1324年 | 幕府を倒す計画がもれ、失敗する(正中の変) |
| 1331年 | 後醍醐天皇が再び兵を挙げるが敗れ、翌年、隠岐へ流される(元弘の変)。楠木正成や、天皇の子の護良親王らが戦い続ける |
| 1333年 | 後醍醐天皇が隠岐を脱出。幕府に命じられて京都へ向かった足利尊氏(当時は高氏)が天皇の側につき、六波羅探題を攻め落とす。関東では新田義貞が鎌倉を攻め、北条氏の一族は自害し、鎌倉幕府は滅びる |
決め手になったのは、足利尊氏や新田義貞といった、もともと幕府に仕える有力な御家人が、幕府に背を向けたことでした。多くの武士が、幕府に見切りをつけていたのです。
5. 「原因はこれ」と一つに決めない
鎌倉幕府の滅亡は、「元寇で恩賞がもらえなかったから」といった一つの理由だけでは説明できません。御家人の暮らし、幕府の中の力のかたより、地方の変化、朝廷の中の争いなど、何十年もかけて積み重なった変化の上に、後醍醐天皇の動きと、有力な武士たちの離反が重なった結果でした。
6. 建武の新政から、室町時代へ
1333年、鎌倉幕府が滅びると、後醍醐天皇は、天皇が自ら政治を行う新しい政治を始めました。翌1334年に「建武」と改元したため、この政治を建武の新政とよびます。しかし、手がらに応じた恩賞や土地の扱いなどをめぐって、武士たちの不満が高まり、足利尊氏が新政から離れていきます。新政は2年ほどでくずれ、時代は室町時代へと移っていきました。
7. まちがえやすいところ
- 元寇のすぐあとに、幕府が滅びたのではない。弘安の役(1281年)から滅亡(1333年)まで、50年以上ある。
- 足利尊氏は、はじめは幕府の側の武士だった。京都へ向かう途中で、天皇の側についた。
- 六波羅探題を攻めたのは足利尊氏、鎌倉を攻めたのは新田義貞。
- 「悪党」は、今の「悪い人」という意味とは少しちがう。荘園の持ち主や幕府に従わない者たちを指した。
8. 1分で深掘り
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