大正の対外政策と植民地

1分でわかる

大正の対外政策と植民地

1918年〜1926年
第一次世界大戦のあと、日本は国際社会でどんな立場になったのか。国際協調と、植民地支配や中国での権益が同時に続いたことを見ていきます。
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1分でわかる歴史大正時代

大正の対外政策と植民地 まとめ

1. ひとことで言うと

日本は戦勝国の一つとして、国際会議で大きな国として扱われるようになった。
同時に、朝鮮と台湾の支配は続き、中国での権益も手放さなかった

第一次世界大戦に勝った側に立った日本は、パリ講和会議に五大国の一つとして参加し、山東省の旧ドイツ権益と、赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を得ました。しかしその同じ1919年、朝鮮では三・一独立運動が、中国では五四運動が起こります。その後、ワシントン会議で軍備を制限し、列強との協調を進めますが、植民地支配と中国での権益はそのまま続きました。国際協調と植民地支配は、同時に存在していたのです。

2. シベリア出兵(1918年〜)

1917年のロシア革命で成立したソビエト政権が、ドイツと単独で講和に動いたため、イギリスとフランスは危機感をもち、日本とアメリカにシベリアへの派兵を求めました。アメリカが、シベリアにいたチェコスロバキア軍を救出するために日米共同で派兵する方針を決めると、日本も1918年8月2日に出兵を宣言します。

長く続いた出兵他の国が早く引きあげたあとも、日本は兵を残し、撤兵は1922年(北樺太からは1925年)まで続きました。戦費と犠牲は大きく、目的がはっきりしないという批判も国内で強まります。また、出兵を見こした米の買い占めが、米騒動の一因にもなりました。1分でわかる大戦景気と米騒動出兵と米価の関係

3. パリ講和会議とベルサイユ条約(1919年)

1919年1月から開かれたパリ講和会議に、日本は五大国の一員として参加しました。首席全権は西園寺公望でしたが、健康の事情から牧野伸顕が事実上その役割を担います。

日本が決めていた方針は、赤道以北のドイツ領南洋諸島を得ること、山東省のドイツ権益をゆずり受けること、そして国際連盟の規約に人種差別を禁止する条項を入れることでした。6月28日に調印されたベルサイユ条約で、日本は山東の旧ドイツ権益を引きつぎ、南洋諸島については国際連盟から統治を任される委任統治の権利を得ます。人種差別撤廃の提案は、賛成多数を得ながらも採用されませんでした。

国際連盟が発足すると、日本は常任理事国の一つになります。

4. 1919年、朝鮮と中国で何が起きたか

三・一独立運動(朝鮮)1919年3月1日、京城(今のソウル)などで独立を宣言する動きが起こり、朝鮮全土に広がりました。多くの人が参加した運動を、日本側は憲兵や軍を使って弾圧し、多数の死傷者が出ます。同じ月、上海で大韓民国臨時政府が成立しました。この運動を受けて、日本は朝鮮統治のやり方を改め、1919年8月に官制を改正して憲兵警察の制度を廃止し、文官も総督になれるようにします。ただし実際には、警察官の数はむしろ増え、支配そのものが終わったわけではありません。
五四運動(中国)パリ講和会議で、中国は山東のドイツ権益の返還と二十一か条要求の取り消しを求めましたが、認められませんでした。1919年5月4日、北京の学生約3000人がデモを行い、二十一か条の破棄や日本製品の排斥を訴えます。運動は学生から商人や労働者へ、北京から全国へ広がり、中国政府はベルサイユ条約への調印を拒否しました。これは、単なる反日の動きではなく、中国の民族運動・政治運動の大きな出発点となります。

5. ワシントン会議と国際協調(1921年〜1922年)

アメリカの提唱で、1921年11月から1922年2月まで、ワシントン会議が開かれました。軍備の制限と、極東・太平洋の問題が話し合われます。

条約内容
四か国条約1921年日本・アメリカ・イギリス・フランスが、太平洋の島々についての権利を尊重し、争いは話し合いで解決すると約束した。これにより日英同盟は終わった
九か国条約1922年中国の主権と独立を尊重し、各国が中国で商工業上の機会を等しくもつことなどを定めた
海軍軍縮条約1922年日・英・米・仏・伊の主力艦の総トン数の比率を、5対5対3対1.67対1.67と定めた

日本は山東省の権益を中国に返し、軍備の拡張にも歯止めがかかります。こうした枠組みの中で列強と協調する外交は、のちに外相となる幣原喜重郎の名から幣原外交ともよばれました。

協調は、支配をやめることではない国際協調が進んだからといって、日本が植民地を手放したり、大陸での権益をあきらめたりしたわけではありません。朝鮮と台湾の統治は続き、南樺太も日本の領域のままで、南洋諸島は新たに委任統治の下に入りました。軍縮に不満をもつ人びとも国内にいました。「大正後半に日本が平和主義になった」という説明は正確ではありません。

6. 植民地はどうなっていたか

地域大正期のようす
朝鮮1910年の併合以降、総督府が統治。三・一独立運動のあと統治方針が改められたが、独立は認められず、言論や運動への取りしまりは続いた
台湾1895年以来の総督府による統治。1919年に文官総督が置かれ、教育や産業の制度が整えられたが、政治参加は大きく制限されていた
南樺太日露戦争後に得た地域として、開発と移住が進んだ
南洋諸島第一次世界大戦後、国際連盟の委任統治領となり、南洋庁が置かれた

国内では選挙権が広がっていた同じ時期に、これらの地域の人びとは、その選挙の対象になっていませんでした。国内の民主化と植民地支配は、切り離さずに一緒に見る必要があります。1分でわかる韓国併合と植民地支配の拡大明治期からの流れ

7. まちがえやすいところ

  • 国際協調が進んだ=日本が平和主義になった、ではない。植民地支配と大陸の権益は続いていた。
  • 三・一独立運動は、一部の人の暴動ではない。朝鮮全土に広がった独立を求める運動だった。
  • 五四運動は、単なる反日運動ではない。中国の民族運動・政治運動の出発点となった。
  • シベリア出兵は、すぐに終わったのではない。他国の撤兵後も続き、国内で批判を受けた。

8. 1分で深掘り

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関連テーマ:シベリア出兵/パリ講和会議/ベルサイユ条約/国際連盟/人種差別撤廃案/三・一独立運動/五四運動/ワシントン会議/幣原喜重郎

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