太閤検地と刀狩

1分でわかる

太閤検地と刀狩

1580年代〜1590年代
秀吉の全国統一は、戦いに勝つことだけではありませんでした。土地と人を、どのようにつかもうとしたのかを見ていきます。
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1分でわかる歴史安土桃山時代

太閤検地と刀狩 まとめ

1. ひとことで言うと

全国の土地を同じものさしで調べて米の量で表し、百姓から武器を集める命令を出した。
武士と百姓の区別は、長い時間をかけて、はっきりしていった

秀吉は、支配した地域で次々と検地を行い、土地の広さや質を調べて、その土地でとれる米の量(石高)で表しました。これを太閤検地といいます。また1588年には、百姓が刀や鉄砲などの武器をもつことを禁じる刀狩令を出しました。こうした政策は、武士と百姓の区別をはっきりさせ、江戸時代の社会のしくみの土台となっていきます。

2. 太閤検地:何が新しかったのか

検地は、秀吉が初めて行ったのではない戦国大名たちも、自分の領国で土地を調べていました。ただ、そのやり方や土地の価値の表し方は、大名ごとにばらばらでした。1分でわかる分国法と領国支配戦国大名の指出と検地
新しかった点中身
同じものさし面積の単位や、米をはかる枡(京枡)をそろえ、広い範囲で同じ基準で調べた
石高田畑や屋敷地の価値を、とれる米の量(石)で表した。大名の領地の大きさも石高で示されるようになる
検地帳村ごとに土地を調べ、その土地を耕す人を検地帳に記した
村ごとの年貢年貢は、村を単位として納めることになった

秀吉のころに、はじめて全国に近い広い範囲で、同じ基準による検地が行われました。ただし、地域によって進み方ややり方にはちがいもありました。

3. 石高で、何が変わった?

大名の大きさが、数字で比べられる大名の領地は「〜万石」と石高で表され、その石高に応じて、戦いのときに出す兵の数なども決められました。領地の移しかえも、石高を基準に行いやすくなりました。
村と百姓土地を耕す人が検地帳に記され、年貢を納める責任をもつようになりました。ただし、実際の村の中の土地の使い方や人間関係は複雑で、検地帳どおりにすべてが決まったわけではありません。

4. 刀狩:本当に武器は全部なくなった?

1588年、秀吉は、百姓が刀・脇差・弓・槍・鉄砲などをもつことを禁じ、差し出させる命令を出しました(刀狩令)。集めた武器は、京都に建てる大仏のくぎなどに使うとされ、百姓は農業に励めば子孫まで安心して暮らせる、と説かれています。

すべての武器が消えたのではない実際には、村に残された武器も多く、鉄砲は、けものから田畑を守るためなどに使われ続けました。地域によって、集め方や集まった量にもちがいがありました。
ねらいは「武器を身につける人」を分けること刀狩のねらいは、武器を完全になくすことよりも、刀を身につけることを武士のしるしとし、百姓が武装して戦ったり一揆を起こしたりしにくくすることにあったと考えられています。1分でわかる室町の村と町・一揆武器をもち、まとまって行動した村の人びと

5. 兵農分離:いつ、武士と百姓は分かれた?

戦国時代には、ふだんは田畑を耕し、戦いになれば武器を取って出かける人も多く、武士と百姓の境目はあいまいでした。

  1. 戦国時代から大名たちが家臣を城下に集め始める。
  2. 1588年刀狩令で、百姓の武器を集める。
  3. 1591年武士に仕える者が百姓や町人になることなどを禁じる命令が出される。
  4. 江戸時代へ武士は城下町に住み、百姓は村に住むという区別が、少しずつ定着していく。

武士と百姓の区別は、一つの命令で、ある日突然に分かれたのではありません。検地や刀狩、城下町への集住などが重なり、長い時間をかけてはっきりしていきました。これを兵農分離とよびます。

6. まちがえやすいところ

  • 検地は、秀吉が初めて行ったのではない。戦国大名も行っていた。秀吉は、広い範囲で基準をそろえた。
  • 刀狩で、すべての武器がなくなったのではない。村に残った武器も多かった。
  • 兵農分離は、刀狩令1枚で突然完成したのではない。長い時間をかけて進んだ。
  • 石高は、お金の額ではなく、とれる米の量で土地を表したもの。

7. 1分で深掘り

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関連テーマ:石高/検地帳/京枡/刀狩令/兵農分離

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