1分でわかる関ヶ原の合戦|なぜ戦い、何が変わった?

1分でわかる

関ヶ原の合戦

1600年(慶長5年)9月15日
なぜ戦い、何が変わったのか。豊臣秀吉の死から、徳川家康が全国の政治の中心に立つまでを見ていきます。
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1分でわかる歴史安土桃山時代 → 江戸時代

関ヶ原の合戦 まとめ

1. 1分でつかむ

1600年、徳川家康の東軍と、石田三成らの西軍が、美濃の関ヶ原で戦った。
東軍が勝ち、家康は全国の政治で大きな力を手に入れ、江戸幕府への道が開かれた
問い答え
時と場所1600年9月15日、美濃の関ヶ原(いまの岐阜県関ケ原町)
だれとだれ徳川家康を中心とする東軍と、石田三成らが動かし、毛利輝元を総大将とした西軍
なぜ豊臣秀吉が亡くなったあと、豊臣政権の中の対立と、大名たちの利害が重なった
結果その日のうちに東軍が勝った。事前の工作や西軍のまとまりの弱さなど、いくつもの要因があった
その後家康が大名の領地を配り直し、1603年に征夷大将軍となって江戸幕府を開いた。豊臣家はそのあとも続いた

「関ヶ原の戦い」ともよばれます。この戦いは「天下分け目の戦い」ともいわれますが、この日一日で何もかもが決まったのではなく、戦いの前後の動きも含めて見ることで、何が変わったのかが分かります。

2. なぜ、戦いが起きたのか

  1. 1598年:豊臣秀吉が亡くなる跡継ぎの豊臣秀頼はまだ6歳。政治は、有力な大名の五大老と、実務を担う五奉行が支えることになった。
  2. 豊臣政権の中の対立五大老の筆頭の徳川家康が、大名どうしの婚姻を進めるなど力を強める。一方、五奉行の石田三成は、朝鮮への出兵のころから一部の大名と対立していた。
  3. 1599年:三成が奉行を退く家康と並ぶ重みをもっていた前田利家が亡くなると、三成に反発する大名たちが三成をおそおうとする事件が起き、三成は奉行の職を退いて近江の佐和山に移った。
  4. 1600年6月:家康、会津へ五大老の一人、会津の上杉景勝が家康の求めに応じなかったとして、家康は大名たちを率いて会津へ向かう。
  5. 1600年7月:三成らが兵を挙げる家康が大坂を離れたすきに、三成や大谷吉継らが兵を挙げ、毛利輝元を総大将に迎える。家康の行いを批判する書状が各地の大名に送られた。
  6. 東軍、西へ家康に従っていた大名の多くは、そのまま西へ向かうことを決め、家康側(東軍)として戦うことになる。
  7. 1600年9月15日:関ヶ原両軍が美濃の関ヶ原で向かい合う。

家康と三成の個人的なけんかではありません。秀吉の死後、だれが、どのように豊臣政権の政治を動かすのかという争いに、大名それぞれの家の生き残りや利害が重なっていました。

豊臣政権おもな顔ぶれ
五大老徳川家康、前田利家(亡くなったあとは子の利長)、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家
五奉行石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以

3. 東軍と西軍

陣営中心代表的な大名
東軍徳川家康福島正則、黒田長政、細川忠興など。豊臣秀吉に取り立てられた大名も多く加わった
西軍石田三成らが動かし、毛利輝元が総大将宇喜多秀家、大谷吉継、小西行長、島津義弘など。上杉景勝も西軍側として東北で動いた
「豊臣家 対 徳川家」ではなかった東軍も西軍も、どちらも「豊臣家のため」という立場をとっていました。東軍に加わった大名の中には、秀吉に仕えてきたものの、三成とは対立していた人びとが多くいました。
全国がきれいに二つに分かれたのではない関ヶ原の本戦のほかにも、信濃の上田城、東北の出羽、九州などで、それぞれの戦いがありました。一つの家の中で、父と子や兄と弟が別々の陣営についた例もあります。各地の大名は、自分の家を守るために、どちらにつくかを考え抜いて判断したのです。

4. 1600年9月15日、何が起きた?

  1. 朝霧の中、両軍の戦いが始まる。
  2. 午前西軍の石田隊、宇喜多隊、大谷隊などが激しく戦い、東軍もなかなか押し切れない。
  3. 動かない部隊南宮山に陣を取っていた毛利勢は、ほとんど動かなかった。毛利家の一族の吉川広家が、前もって家康側と話をつけていたためといわれる。
  4. 正午ごろ松尾山にいた小早川秀秋の大軍が東軍につき、大谷隊を攻める。近くにいた西軍の部隊の一部もこれに続く。
  5. 午後西軍は総崩れとなり、戦いは東軍の勝利に終わる。島津勢は、敵の中を突き進んで戦場から引き上げた。

時刻や細かな順番には、史料によって異なる点もあり、研究によって見直されている部分もあります。なお、9月15日は当時の暦による日付です。

5. なぜ、東軍が勝ったのか

「小早川秀秋が寝返ったから」だけでは説明できません。いくつかの要因が重なっていました。

戦いの前の準備家康は、戦いの前から多くの大名に手紙を送り、味方につけたり、戦わない約束を取りつけたりしていました。戦場の外で、すでに勝負は動き始めていたのです。
西軍のまとまりの弱さ西軍の総大将の毛利輝元は大坂城にとどまり、関ヶ原には来ませんでした。関ヶ原の西軍の中にも、実際には戦わなかった部隊が少なくありませんでした。人数では互角以上とされる西軍でも、実際に戦った軍勢はかぎられていました。
小早川秀秋らの動き大軍をひきいる小早川秀秋が戦いの途中で東軍についたことは、勝敗を決める大きな場面になりました。ただし、秀秋がいつ、どんな考えで東軍につくことを決めていたのかについては、さまざまな見方があります。
豊臣家の家臣の多くが、東軍にいた秀吉に取り立てられた有力な大名の多くが東軍に加わっていました。家康は「豊臣家に逆らう」のではなく、「三成らを討つ」という形をとっていたため、大名たちは東軍に加わりやすかったのです。

6. 関ヶ原のあと、何が変わった?

だれどうなった
石田三成ら戦いのあと捕らえられ、小西行長らとともに京都で処刑された
西軍の大名多くの大名が領地を取り上げられたり、減らされたりした。毛利氏は中国地方の大部分から周防・長門(いまの山口県)へ、上杉氏は会津から米沢へ移された。島津氏は、交渉の末に領地を守った
東軍の大名手がらに応じて領地を増やされ、各地に配置し直された
徳川家康大名の領地を配り直す立場に立ち、全国の政治で大きな力を手に入れた
豊臣家秀頼は大坂城に残り、豊臣家は続いた。ただし、その力は大きく弱まった
年できごと
1598年豊臣秀吉が亡くなる
1600年関ヶ原の合戦
1603年家康が征夷大将軍となり、江戸幕府を開く
1605年家康が将軍職を子の秀忠にゆずる
1615年大坂の陣で豊臣家が滅びる

関ヶ原の合戦は、家康が全国の政治で大きな優位を得る転機になりました。そして、その優位をもとに江戸幕府が開かれ、豊臣家との関係にも決着がつけられていきます。

7. まちがえやすいところ

  • 関ヶ原で江戸幕府ができたのではない。江戸幕府が開かれたのは、3年後の1603年。
  • 関ヶ原で豊臣家が滅びたのではない。豊臣家が滅びたのは、1615年の大坂の陣。
  • 家康と三成の個人的なけんかではない。豊臣政権の中の対立と、大名たちの利害が重なった戦い。
  • 西軍の総大将は、石田三成ではなく毛利輝元。三成は、西軍を動かした中心人物の一人。
  • 勝敗は、小早川秀秋の動きだけで決まったのではない。事前の工作や、動かなかった部隊など、いくつもの要因があった。

8. 1分で深掘り

この合戦は、豊臣秀吉が全国を統一した安土桃山時代と、徳川家康が開いた江戸時代をつなぐできごとです。

関連テーマ:豊臣秀吉/五大老と五奉行/石田三成/小早川秀秋/大坂の陣/江戸幕府

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