応仁の乱から戦国時代へ
応仁の乱から戦国時代へ まとめ
1. ひとことで言うと
そのあと、各地で国ごとの争いが激しくなっていった
1467年に始まった応仁の乱は、将軍の跡継ぎ問題だけで起きたのではありません。有力な守護の家の中での跡継ぎ争いや、幕府の実力者どうしの対立が重なり、全国の守護大名が東西二つの陣営に分かれて京都で戦いました。戦乱は11年続き、京都の町は大きく荒れました。そのあと、幕府の力は弱まり、各地で国ごとの争いが激しくなっていきます。
2. 乱の前:将軍の力のゆらぎ
1441年、強い態度で守護をおさえつけた6代将軍の足利義教が、守護の赤松氏に殺されました。そのあとの将軍は幼くして位についたこともあり、将軍の力はゆらぎ、有力な守護たちの争いを収めることが難しくなっていきます。1分でわかる室町幕府と守護大名将軍と守護の力のつり合い
8代将軍の足利義政は、こうした中で14歳ごろに将軍となりました。守護の家の跡継ぎ争いに幕府が口を出し、その決定が何度も変わったことが、争いを大きくした面もあります。ただ、それは義政ひとりの問題ではなく、将軍と守護たちの力のつり合いが崩れていた、幕府のしくみ全体の問題でもありました。
3. 重なった、いくつもの争い
| 争い | 中身 |
|---|---|
| 畠山氏 | 管領をつとめる家で、跡継ぎをめぐって一族が二つに分かれて争っていた。乱の直接のきっかけとなった |
| 斯波氏 | 同じく管領の家で、跡継ぎ争いが続いていた |
| 将軍家 | 義政が弟の義視を跡継ぎとしたあとに、子の義尚が生まれ、跡継ぎをめぐる対立の種になった |
| 細川と山名 | 幕府の実力者だった細川勝元と山名宗全が対立し、それぞれの争いの一方を支えて、東軍(細川方)と西軍(山名方)の二つの陣営ができた |
全員の名前を覚える必要はありません。大切なのは、「いくつもの家の争いが、二つの陣営にまとまり、京都に集中した」ということです。
4. なぜ、11年も長引いたのか
1477年、大名たちの多くが自分の国へ引き上げ、乱はようやく終わりました。
5. 乱のあと、何が変わった?
6. いつから戦国時代?
戦国時代の始まりは、応仁の乱の始まった1467年とされることが多いですが、ひとつの年に決まるものではありません。
| 年 | 見方の一例 |
|---|---|
| 1454年〜 | 関東では、鎌倉公方と関東管領の争い(享徳の乱)から、応仁の乱より早く長い戦乱が始まっていた |
| 1467年 | 応仁の乱が始まる。京都を中心とする大きな戦乱 |
| 1493年 | 明応の政変。将軍が家臣に替えられ、幕府の力が大きく変わる |
地域によって、戦国の争いが本格化する時期はちがいました。全国が1467年に一斉に戦国時代になったのではなく、15世紀の後半から、各地で少しずつ戦国の世へ移っていったのです。室町幕府そのものは、そのあとも1573年ごろまで続きました。
ここから先は、戦国時代です。
7. まちがえやすいところ
- 応仁の乱は、将軍の跡継ぎ争いだけで起きたのではない。守護家の跡継ぎ争いや、細川・山名の対立が重なった。
- 東軍は細川勝元、西軍は山名宗全。
- 応仁の乱で、室町幕府が滅びたのではない。力は弱まったが、幕府は続いた。
- 全国が1467年に一斉に戦国時代になったのではない。地域ごとに時期がちがう。
8. 1分で深掘り
← 室町時代にもどる関連テーマ:足利義政/細川勝元/山名宗全/足軽/享徳の乱/明応の政変
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