1分でわかる
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御家人と鎌倉幕府のしくみ
12世紀末〜14世紀はじめ
武士たちは、なぜ将軍に従ったのか。「御恩と奉公」の中身と、それを支えた守護・地頭・裁判のしくみを見ていきます。
1分でわかる歴史鎌倉時代
御家人と鎌倉幕府のしくみ まとめ
1. ひとことで言うと
武士たちがいちばん望んだのは、自分の土地を確かに守ってもらうこと。
それに応えたのが、鎌倉幕府だった
それに応えたのが、鎌倉幕府だった
平安時代の終わりの武士たちは、自分たちが開き、守ってきた土地の権利を、国司や荘園の持ち主との争いの中で失うおそれをいつも抱えていました。頼朝は、武士たちの土地の権利を認めて守り、手がらを立てた者には新しい土地を与えました。その代わりに、武士たちは将軍のために戦い、仕えました。この結びつきを「御恩と奉公」とよびます。1分でわかる荘園と武士の成長武士は、どんな土地の上に生きていたのか
2. 御恩と奉公
| 向き | 名前 | 中身 |
|---|---|---|
| 将軍から | 御恩 | 先祖から受けついだ土地の権利を認めて守る(本領安堵)。手がらを立てた者に新しい土地や地頭の職を与える(新恩給与) |
| 御家人から | 奉公 | 戦いのときは命がけで戦う。ふだんは京都や鎌倉の警備につとめる(京都大番役・鎌倉番役) |
へえ「いざ鎌倉」大事が起きたら、すぐに鎌倉へかけつける。のちの時代に「いざ鎌倉」という言葉が生まれたように、御家人にとって奉公は、土地を守ってもらうことと引きかえの大切な務めでした。
御恩と奉公は、土地を仲立ちにした、将軍と御家人一人ひとりとの約束でした。土地を与えることができるかどうかが、このしくみを支える大きなかぎになります。
3. 守護と地頭は、何をした?
| 役職 | 置かれた単位と仕事 |
|---|---|
| 守護 | 国ごとに一人。その国の御家人をまとめ、京都の警備に向かわせたり、謀反人や殺人をおかした者を取りしまったりした |
| 地頭 | 荘園や公領ごと。土地を管理し、年貢を取り立てて荘園の持ち主や国司に納め、治安を守った |
地頭になれば、その土地から収入が得られます。地頭の職は、御家人にとって大切な「御恩」でした。
4. 裁判が、幕府の大切な仕事だった
武士どうしや、武士と荘園の持ち主のあいだでは、土地をめぐる争いが絶えませんでした。幕府は問注所などで訴えを聞き、判決を出しました。公平な裁判をしてくれることは、武士たちが幕府を頼りにする大きな理由でした。1232年には、裁判のよりどころとなる御成敗式目もつくられます。1分でわかる承久の乱と執権政治北条氏が幕府の中心になり、御成敗式目ができるまで
地頭と荘園の持ち主の争い地頭の中には、年貢を納めなかったり、土地を自分のもののように扱ったりする者もいました。争いを収めるため、地頭が一定の年貢を納める約束をする(地頭請)や、土地を地頭と荘園の持ち主で分け合う(下地中分)といった方法もとられました。
5. 武士の家と、土地の受けつぎ方
一族のまとまり武士の一族は、家のかしら(惣領)を中心にまとまり、戦いにも一族で出かけました。
土地は、子どもたちで分けた土地は、男子だけでなく女子にも分けて受けつがれることがありました(分割相続)。女性が地頭になることもあったのです。ただ、代を重ねるごとに一人ひとりの土地は小さくなり、やがて御家人の暮らしを苦しくする原因のひとつになっていきます。1分でわかる鎌倉幕府はなぜ滅びた?御家人の暮らしの変化と、幕府のゆらぎ
6. 幕府のしくみ
| 場所 | 主な役所・役職 |
|---|---|
| 鎌倉 | 将軍のもと、侍所(御家人の統率)、政所(政治・財政)、問注所(裁判)。のちに執権や評定衆が中心となる |
| 京都 | 承久の乱のあと、六波羅探題を置き、朝廷の監視や西国の武士の統率にあたる |
| 地方 | 国ごとの守護、荘園・公領ごとの地頭 |
7. まちがえやすいところ
- すべての武士が御家人だったのではない。将軍と主従の関係を結んだ武士が御家人。そうでない武士もいた。
- 地頭が置かれても、荘園の持ち主がいなくなったのではない。荘園の持ち主や国司の支配は続き、地頭と並び立った。
- 御恩は「お金」ではなく、主に土地にかかわる権利。土地を守り、新しい土地を与えることが中心だった。
- 守護は国ごと、地頭は荘園・公領ごと。
8. 1分で深掘り
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