天武・持統と律令国家
天武・持統と律令国家 まとめ
1. ひとことで言うと
天皇を中心とする国のしくみが、形になっていった
乙巳の変から続いてきた改革は、7世紀の終わりに大きく進みます。天武天皇は、壬申の乱に勝って強い立場を得ると、きまりづくりや歴史書づくりを命じました。そのあとを継いだ持統天皇は、きまりを実際に動かし、本格的な都・藤原京を完成させます。そして701年、大宝律令ができあがりました。律令国家は、ある日突然できたのではなく、こうした積み重ねの上に形になったものです。
2. 672年:壬申の乱
- 天智天皇が亡くなる671年、天智天皇が亡くなる。天皇は、息子の大友皇子にあとを継がせようとしていたとされる。
- 大海人皇子が吉野へ天智天皇の弟の大海人皇子は、位を継がずに出家し、吉野(いまの奈良県)へ退いていた。
- 東国の兵を集める672年、大海人皇子は美濃(いまの岐阜県)へ移り、東国の兵を集めて近江へ攻め上る。
- 近江の朝廷が敗れる約1か月の戦いのすえ、大友皇子の側が敗れる。
- 天武天皇の即位673年、大海人皇子は飛鳥浄御原宮で即位し、天武天皇となる。
古代で最大ともいわれるこの内乱で、近江の朝廷を支えていた有力な豪族たちの多くが力を失いました。その結果、天皇の力が強まったと考えられています。
3. 天武天皇が進めたこと
| 取り組み | 内容 |
|---|---|
| きまりづくり | 681年、律令(国のきまり)をつくるよう命じる。のちの飛鳥浄御原令になる |
| 歴史書づくり | 天皇家や国の歴史をまとめる作業を始めさせた。奈良時代の『古事記』『日本書紀』につながったとされる |
| 八色の姓 | 684年、豪族の家がらを8つの姓に整理し、天皇との近さで序列をつけた |
| 富本銭 | このころにつくられたと考えられる銅の銭。日本で最も古い貨幣のひとつとされる |
| 寺と仏教 | 薬師寺を建て始めるなど、国として仏教を重んじた |
4. 持統天皇が引き継いだこと
持統天皇は天智天皇の娘で、天武天皇の皇后です。686年に天武天皇が亡くなると、政治を引き継ぎ、690年に即位しました。
| 年 | できごと |
|---|---|
| 689年 | 飛鳥浄御原令を施行する |
| 690年 | 新しい戸籍(庚寅年籍)をつくる |
| 694年 | 藤原京へ都を移す |
| 697年 | 孫の文武天皇に位をゆずる |
5. 701年:大宝律令
文武天皇のとき、刑部親王や藤原不比等(中臣鎌足の子)らによって、大宝律令がまとめられました。
| きまり | 内容 |
|---|---|
| 律りつ | 罪と、その罰についてのきまり |
| 令りょう | 国の組織や役人、人びとの負担など、政治のしくみについてのきまり |
中央には太政官などの役所を置き、地方は国・郡・里に分けて、都から国司を送りました。戸籍にもとづいて人びとに田をあたえ、税を取るしくみも定められています。このきまりにもとづく国を、律令国家とよびます。
ただ、きまりができたことと、それが全国で思いどおりに動くことは別です。律令のしくみが実際にどう動き、どこでほころびていったのかは、奈良時代の大きなテーマになります。
6. そして平城京へ
707年に文武天皇が亡くなると、その母の元明天皇が即位します。710年、都は藤原京から平城京へ移されました。藤原京が都だった期間は、16年ほどでした。ここから先は、奈良時代です。
7. まちがえやすいところ
- 天武天皇は、天智天皇の弟。天武=大海人皇子。天智=中大兄皇子。
- 大宝律令ができたのは、持統天皇の在位中ではない。位をゆずられた文武天皇のとき(701年)。
- 藤原京と平城京を混同しない。藤原京は694年(持統天皇)、平城京は710年(元明天皇)。
- 律令国家は、701年に一気に完成したのではない。7世紀を通じた改革の積み重ねの上にある。
8. 1分で深掘り
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