奈良の大仏

1分でわかる

奈良の大仏

743年〜752年
東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ)。つくる詔(みことのり)から、開眼供養(かいげんくよう)までを扱います。
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1分でわかる歴史奈良時代

奈良の大仏 まとめ

1. ひとことで言うと

社会不安が続くなか、聖武天皇が仏教の考えにもとづき、
国じゅうの人びとの協力を集めてつくった大仏

「奈良の大仏」の正式な名前は、東大寺の盧舎那仏です。743年に聖武天皇がつくる詔(みことのり)を出し、752年に開眼供養(かいげんくよう)が行われました。ただし、今の大仏は奈良時代のままではありません。火事や戦いで傷み、そのたびに作り直されてきたからです。

正式な名前東大寺の盧舎那仏(るしゃなぶつ)
つくらせた人聖武天皇
場所奈良の東大寺
いつ743年につくる詔 → 752年に開眼供養(仏像に魂を入れる儀式)
大きさ像の高さ 約15メートル

2. ここを押さえる

① 正式名は「東大寺の盧舎那仏」華厳経(けごんぎょう)という経典で、智慧と慈悲の光で世界(宇宙)全体を照らす仏として説かれる存在。「大仏」は通称です。
② つくらせたのは聖武天皇疫病や争いが続く社会不安が、背景にありました。聖武天皇は、仏教の力で国を安定させようとする政策のひとつとして、大仏をつくらせたと考えられています。背景はひとつではなく、華厳経の考えや、人びとの協力という考えも重なっています。
③ 国じゅうの人の力を集めた天皇みずから先頭に立って、広く人びとに協力を呼びかけました。みんなが力を合わせてつくるという考え(知識)が、この大仏づくりの特色です。僧の行基は、人びとの協力を集める役で活躍しました。
④ 東大寺は、国分寺とつながりの深い寺東大寺の前身は、大和国の国分寺にあたる金光明寺(もとは金鍾寺)とされます。大仏はその地でつくられ、東大寺は、全国の国分寺の中心である「総国分寺」とされました。
⑤ 紫香楽で始め、平城京で完成都を転々とするなか、最初は紫香楽(滋賀県)でつくりはじめ、平城京に戻ってから、東大寺の地で造りなおしました。
⑥ 752年、開眼供養インド出身の僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が導師をつとめ、約1万人の僧が集まったと伝えられます。
⑦ 今の大仏は、奈良時代のままではない1180年と1567年に焼けて傷み、江戸時代に作り直されました。頭は江戸時代のものです。

3. 流れでわかる

大仏づくりの背景は、ひとつではありません。社会不安、仏教で国を安定させる政策、華厳経の考え、人びとの協力、などが重なったと考えられています。大きな流れは次のとおりです。

  1. 災いが続く長屋王の変(729年)、疫病の大流行(735〜737年)、藤原広嗣の乱(740年)。聖武天皇は、都を恭仁京・難波宮・紫香楽宮などへ、転々と移した。
  2. 仏教で国を安定させる政策741年、国ごとに国分寺・国分尼寺をつくるよう命じる。
  3. 743年 大仏をつくる詔紫香楽で、盧舎那仏(華厳経の仏)をつくると宣言。国を守る願いのもと、天皇が先頭に立ち、広く人びとの協力を呼びかけた。
  4. 場所が変わる744年に紫香楽で骨組みの柱を立てたが、745年に都が平城京へ戻り、今の東大寺の地で造りなおしが始まる。
  5. 747〜749年 鋳造銅の像を、8回に分けて鋳(い)る。749年、陸奥国で日本で初めて金が出たとされ、元号が「天平感宝」に変わる。
  6. 752年 開眼供養貴族や僧が集まり、大仏に魂を入れる儀式が行われる。
  7. そのあと地震や戦火で、何度も傷みや焼失にあう。そのたびに、人びとの力で作り直された。今の姿になったのは江戸時代。

4. もう少し知る

行基:取りしまられた僧が、協力者になった行基(668〜749)は、橋や池をつくって人びとに慕われた僧。朝廷に取りしまりを受けた時期もありましたが、のちに聖武天皇から協力を求められ、大仏づくりの協力集めの役を担いました。745年には大僧正という高い位を受けましたが、大仏の完成前、749年に亡くなりました。
だれがつくった?大仏をつくる技術の責任者(大仏師)は、国中連公麻呂(くになかのむらじ きみまろ)。天皇の命令だけでなく、技術者や、資材・労働を出した多くの人の力で成り立った事業でした。
どうやってつくった?大仏は、銅でつくられた巨大な像です。大きすぎて一度には流し込めないため、8回に分けて鋳造し(747〜749年)、表面に金がほどこされました。
東大寺と国分寺の関係国分寺は、741年の詔で国ごとにつくらせた寺です。東大寺の前身は、大和国の国分寺にあたる金光明寺(もとは金鍾寺)とされ、大仏はその地でつくられました。そして東大寺は、全国の国分寺の中心である「総国分寺」とされます。つまり東大寺は、「大和国の国分寺の流れをくむ寺」であり、同時に「全国の国分寺のまとめ役」でもありました。国分尼寺の中心は、平城京の法華寺(総国分尼寺)です。
今の大仏の、どこが奈良時代?東大寺の公式サイトによると、頭は江戸時代に作り直されたものです。一方、体の下のほうや台座には、奈良時代の部分が残るとされています。どこがどれだけかは、資料によって説明に差があります。国の文化財データベースでも、この像の時代は「奈良〜江戸」とされています。

大仏が受けついできた歴史

年できごと
752年開眼供養(大仏の完成)
855年地震で、頭が落ちる(861年に修理)
1180年平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちで、大仏殿とともに大きく傷む(1185年に開眼供養、1195年に大仏殿が完成)
1567年松永久秀と三好軍の戦いで、大仏殿が焼ける
1692年江戸時代、公慶(こうけい)らの努力で再興し、開眼供養(1709年に大仏殿が完成)
おもしろ話都を移しながら、つくりはじめた大仏づくりは、紫香楽(滋賀県)ではじまり、平城京で完成しました。都が定まらないなかでの一大事業でした。
おもしろ話金が見つかって、元号が変わった749年、陸奥国で日本で初めて金が出たとされ、めでたいことだとして元号が「天平感宝」に変わりました。
おもしろ話大仏殿は、昔のほうが大きかった大仏殿の正面の幅は、奈良時代の創建時は約88メートル。今の大仏殿(江戸時代の1709年に完成)は約57メートルです。

5. まちがえやすいところ

  • 「奈良の大仏」と「鎌倉の大仏」はちがう。奈良=東大寺・盧舎那仏・奈良時代。鎌倉=高徳院・阿弥陀如来(あみだにょらい)・鎌倉時代(13世紀)。
  • 今の大仏は、そっくりそのまま奈良時代のものではない。焼けたり傷んだりして作り直されており、頭は江戸時代のもの。
  • 聖武天皇ひとりでつくったわけではない。行基や大仏師、資材や労働を出した多くの人の力を集めた事業。
  • 東大寺は、「大和国の国分寺」でもあり「全国の国分寺の中心」でもある。前身は大和国の国分寺(金光明寺)とされ、のちに全国の国分寺をまとめる総国分寺とされた。

6. ここまで説明できれば、全体像はつかめています

  • 正式名は東大寺の盧舎那仏。聖武天皇がつくらせた
  • 社会不安のなか、仏教で国を安定させようとした(背景に、国分寺・華厳経・人びとの協力の考え)
  • 743年に詔、752年に開眼供養。行基が協力を集めた
  • 何度も焼けて作り直され、今の頭は江戸時代のもの

奈良の大仏について、このくらい説明できれば全体像をつかめています。

7. 1分で深掘り

大仏を、奈良時代全体の流れの中でとらえ直すと、聖武天皇の時代の位置づけがよくわかります。

次に読む

1分でわかる聖武天皇大仏をつくらせた天皇。国分寺・光明皇后・行基との関係 1分でわかる鑑真東大寺の大仏殿の前で授戒を行った、唐の高僧 ← 奈良時代にもどる

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