白村江の戦いと東アジア
白村江の戦いと東アジア まとめ
1. ひとことで言うと
そのあと倭は、攻められることに備えて、守りと国づくりを急いだ
7世紀の東アジアでは、中国の唐が大きな力をもち、朝鮮半島の国々の関係も大きく動いていました。倭(のちの日本)は、長く関係の深かった百済を助けるために軍を送りましたが、白村江で大敗します。この敗戦のあと、九州から都のまわりにかけて守りの施設がつくられ、全国的な戸籍づくりなど、国の中のしくみも整えられていきました。「白村江」は「はくそんこう」とも「はくすきのえ」とも読みます。
2. 東アジアで何が起きていたのか
| 年 | できごと |
|---|---|
| 618年 | 中国で隋が滅び、唐が建国される |
| 660年 | 唐と新羅が手を結び、百済を滅ぼす |
| 663年 | 白村江の戦い |
| 668年 | 唐と新羅が、高句麗を滅ぼす |
| 676年 | 新羅が唐の勢力を追い出し、朝鮮半島の大部分をまとめる |
わずか十数年のあいだに、朝鮮半島の勢力図は大きく塗りかえられました。
3. なぜ、百済を助けたのか
理由はひとつではなく、いくつかの事情が重なっていたと考えられています。
661年、斉明天皇はみずから九州へ向かいましたが、その地で亡くなります。そのあとは、中大兄皇子が即位しないまま政治を行い、朝鮮半島へ軍を送りました。
4. 663年:白村江の戦い
倭と百済の復興軍は、朝鮮半島の南西部の白村江(いまの錦江の河口付近とされる)で、唐・新羅の軍と戦いました。倭の水軍は唐の水軍に大敗し、百済を立て直す試みは失敗に終わります。このあと、多くの百済の人びとが倭へ渡ってきました。
5. 敗戦のあと①:守りを固める
唐・新羅の軍が攻めてくるかもしれない。そうした危機感の中で、守りの施設がつくられました。
| 守り | 内容 |
|---|---|
| 防人さきもり | 対馬・壱岐・九州北部の守りにつかせた兵士 |
| 烽とぶひ | のろし台。煙や火で、急な知らせを遠くへ伝える |
| 水城みずき | 九州北部(いまの福岡県)に築いた、堀をともなう大きな土の堤 |
| 山城やまじろ | 大野城・基肄城など。倭へ渡った百済の人びとの技術で築かれた、朝鮮式の山城 |
山城は、九州から瀬戸内、大和(いまの奈良県)の近くにまで築かれました。
6. 敗戦のあと②:国の中を整える
7. そのあと、どうなった?
心配されていた唐・新羅の攻撃は、結局ありませんでした。唐と新羅が、朝鮮半島の支配をめぐって争うようになったためです。一方、倭の国内では、671年に天智天皇が亡くなると、翌672年に、天皇の位をめぐる壬申の乱が起こります。
8. まちがえやすいところ
- 倭が助けたのは百済。戦った相手は、唐と新羅。
- 「白村江で負けたから、律令国家になった」とは言い切れない。敗戦は国づくりを急がせたが、改革はそれ以前から続いていた。
- 防人は、白村江のあとだけのものではない。奈良時代にも続き、東国の人びとが多く送られた。『万葉集』には防人の歌も残る。
- 天智天皇は、中大兄皇子。天武天皇(大海人皇子)と逆にしない。
9. 1分で深掘り
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