聖徳太子と推古朝の国づくり
聖徳太子と推古朝の国づくり まとめ
1. ひとことで言うと
豪族を役人としてまとめる、新しい国づくりが始まった
聖徳太子は、歴史の中でもとくに有名な人物です。ただ、この時代の政治は、太子ひとりで進めたものではありません。推古天皇のもとで、厩戸王(聖徳太子)と、有力な豪族の蘇我馬子が協力しながら、隋(中国)の制度や仏教を取り入れ、豪族を天皇に仕える役人としてまとめていこうとしました。現在の研究では、よく知られた聖徳太子の姿には、後の時代に作られた人物像も含まれると考えられています。
2. この時代の中心にいた3人
3. 何をしたのか
| しくみ | ねらい・内容 |
|---|---|
| 冠位十二階603年 | 冠の色などで、役人の位を12段階に分けた。家がらだけでなく、能力や功績に応じて位をあたえ、昇進もできるようにしたとされる |
| 十七条憲法604年 | 役人の心がまえを示したもの。和を大切にすること、仏教をうやまうこと、天皇の命令に従うことなどが書かれている |
| 遣隋使600年〜 | 中国を統一した隋に使いを送り、制度や文化を学ぼうとした |
| 仏教を広める | 寺を建て、仏教を国づくりの柱のひとつにしようとした。法隆寺や四天王寺は、厩戸王が建てたと伝えられる |
「憲法」といっても、今の日本国憲法のような国のきまりではなく、役人に向けた教えです。仏教や、中国の儒教の考え方が取り入れられています。
4. 遣隋使:隋に何を伝えたのか
5. 「聖徳太子」という名前と人物像
「聖徳太子」は、亡くなったあとに広まった呼び名とされ、生前は厩戸王(厩戸皇子)などとよばれていたと考えられています。そのため、教科書では「聖徳太子(厩戸王)」のように、2つの名前を並べて書くことがあります。
太子は、のちの時代に仏教の聖人として深く信仰されるようになりました。「一度に10人の話を聞き分けた」といった話は、そうした中で伝えられてきたものです。どこまでが実際の姿なのかについては、今も研究が続いています。
6. そのあと:蘇我氏の時代へ
厩戸王は622年に、蘇我馬子は626年に、推古天皇は628年に亡くなりました。そのあと、馬子の子の蘇我蝦夷、孫の蘇我入鹿が力を強めていきます。643年には、入鹿が厩戸王の子の山背大兄王の一族を滅ぼしたと『日本書紀』は記します。こうした中で、645年の乙巳の変が起こりました。
1分でわかる乙巳の変と大化の改新蘇我氏が倒れたあと、何が変わりはじめたのか7. まちがえやすいところ
- 推古朝の政治は、聖徳太子ひとりの仕事ではない。推古天皇と蘇我馬子もかかわり、協力しながら進められた。
- 十七条憲法は、国民のための法律ではない。役人(豪族)に向けた心がまえ。
- 冠位十二階で、家がらの力がなくなったわけではない。蘇我氏のような大豪族は、冠位の外にいたとも考えられている。
- 遣隋使と遣唐使を混同しない。遣隋使は隋へ、遣唐使は唐へ(630年から)。
8. 1分で深掘り
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