関東大震災
関東大震災 まとめ
1. ひとことで言うと
混乱の中で流言が広がり、朝鮮人をはじめとする人びとが殺傷される事件も起きた
1923年9月1日午前11時58分、関東地方の南部を大きな地震が襲いました。昼食の時間と重なったこともあり、東京や横浜では各地で火災が起こり、強い風にあおられて燃え広がります。死者と行方不明者は10万人を超えました。混乱の中で「朝鮮人が暴動を起こす」といった流言が広まり、自警団や軍・警察の一部による殺傷事件が起こります。被災地の復興は、都市の形そのものを変えていきました。
2. 何が起きたのか
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 発生 | 1923年9月1日 午前11時58分、相模湾北西部を震源とする地震 |
| 規模 | マグニチュード7.9と推定されている |
| 死者・行方不明 | 10万5千人あまりとされる(資料により数値に差がある) |
| 焼失した家 | 21万戸を超えるとされる |
| 被害の中心 | 東京と横浜。建物の倒壊よりも、そのあとの火災による被害が大きかった |
3. 混乱の中で起きたこと
電話や電信が切れ、鉄道も止まったため、被害の全体像がだれにもつかめない状態が続きました。そうした中、地震の直後から「朝鮮人が暴動を起こす」「井戸に毒を入れた」といった根拠のない噂(流言)が広まります。
政府の中央防災会議の専門調査会がまとめた報告書は、この点について、関東大震災時には官憲、被災者や周辺住民による殺傷行為が多数発生したこと、武器を持った多数の者が武装していない少数の者に暴行を加えたうえで殺害するという、虐殺という表現が当てはまる例が多かったこと、殺傷の対象となったのは朝鮮人が最も多かったが、中国人や日本人も少なからず被害にあったことを記しています。
犠牲になった人の数は、資料や研究によって差があり、一つの確定した数字にはなっていません。ただし、災害時の流言と差別が、多くの人の命を奪う暴力につながったこと自体は、公的な報告書にも記された事実です。
また、この混乱の中で、社会主義者が暴動を扇動したとして検挙され、警察や軍人によって殺害される事件も起きました。無政府主義者の大杉栄らが憲兵に殺害された甘粕事件もその一つです。
4. 救援と復興
震災の直前に首相が亡くなっていたため、新しい内閣の組閣は震災の時点で終わっていませんでした。9月2日に成立した山本権兵衛内閣は、ただちに応急の対策に取り組み、9月4日に方針を閣議で決めています。
復興を担ったのは、内務大臣兼帝都復興院総裁となった後藤新平でした。後藤は大規模な都市改造を構想します。予算は大きく削られましたが、幹線道路の整備、区画整理、橋の架けかえ、公園や小学校の建設などが進められました。今の東京の道路や公園、橋には、このときに整えられたものが少なくありません。
5. 震災のあとの社会
被災した人びとが郊外へ移り住んだことで、鉄道沿線の住宅地が広がりました。鉄筋コンクリートの建物や、新しい形の店や住まいも現れます。一方で、震災の被害を受けた会社の手形の処理が、のちに昭和の金融恐慌の一因になりました。
6. まちがえやすいところ
- 被害の多くは、建物の倒壊だけではない。そのあとの火災が被害を大きくした。
- 流言による殺傷事件は、うわさ話ではない。公的な報告書にも記された事実として扱われている。
- 犠牲者の数は、確定していない。資料や研究によって差があり、一つの数字で言い切ることはできない。
- 震災が、そのまま都市文化を生んだのではない。変化は震災の前から進んでいた。
7. 1分で深掘り
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