1分でわかる
奈良時代
710年〜794年ごろ
平城京に都があった約80年。784年に長岡京、794年に平安京へ移るころまでを扱います。
1分でわかる歴史奈良時代
奈良時代 まとめ
1. ひとことで言うと
律令(りつりょう)の国ができあがり、仏教の力で守ろうとした。
でも、そのしくみは少しずつほころびていく
でも、そのしくみは少しずつほころびていく
飛鳥時代に目ざした「天皇中心の国」が、律令というきまりで実際に動きはじめたのが奈良時代です。新しい都・平城京をつくり、災いや争いが続くなかでは、仏教の力で国を安定させようとしました。その一方で、土地と人びとを国が管理するしくみは早くもゆるみ、貴族や寺の力が強まっていきます。
2. ここを押さえる
① 710年、平城京に都を移した唐(中国)の都をお手本にした、碁盤の目の都。ここから約80年、律令にもとづく国の中心になります。
② 田んぼを国が貸す → ゆらぐ → 開墾地は自分のものに人びとに田を貸して税を取る「班田収授法」で始まりましたが、田の不足などで運用が難しくなり、743年の墾田永年私財法で、開墾した土地を条件つきで持ち続けられるようになります。
③ 聖武天皇は、仏教の力で国を守ろうとした疫病や争いが続くなか、聖武天皇は各地に国分寺をつくらせ、都には大仏をつくりました。詳しく:1分でわかる奈良の大仏なぜ、だれが、どうやってつくったのか。そのあとどうなったのか
④ 唐から学び、鑑真も来日した遣唐使が唐の制度や仏教を持ち帰り、唐の高僧・鑑真は、日本の僧に正式な戒律(僧のきまり)を伝えるために来日しました。
⑤ 天平文化:仏教と唐の影響が強い文化東大寺の大仏や正倉院の宝物、歴史書の『古事記』『日本書紀』、和歌集の『万葉集』がこの時代のものです。
⑥ 貴族の力争いが政治を動かした藤原氏が力をのばすなかで、長屋王の変、藤原広嗣の乱、藤原仲麻呂の乱、道鏡をめぐる事件など、争いが続きます。
⑦ 都は、平城京から平安京へ784年に長岡京、794年に平安京へ。桓武天皇が、政治を立て直すために移したといわれます。
3. 流れでわかる
奈良時代は、「国のしくみを動かす」→「ほころびが出る」→「仏教と争いで揺れる」→「立て直しのため都を移す」という流れで見るとつかみやすくなります。
- 710年平城京に都を移す。律令にもとづいて、人びとに田を貸し、税を取る国のしくみが動きはじめる。
- ほころび田の不足や、税から逃げる人の増加などで、田を貸すしくみの運用が難しくなる。国は開墾をすすめ、723年の三世一身法のあと、743年に墾田永年私財法を出す(背景はひとつではないとされる)。開墾した土地を条件つきで持ち続けられるようになり、有力な寺社や貴族などが広い私有地(のちの荘園)を持つ道が開ける。
- 729〜740年ごろ長屋王の変、疫病の大流行(735〜737年)、藤原広嗣の乱と、災いと争いが続く。聖武天皇は都を何度も移した。
- 仏教で国を守る741年に国分寺をつくる詔、743年に大仏をつくる詔。752年に大仏の開眼供養が行われる。
- 唐に学ぶ遣唐使が唐の制度や仏教を持ち帰り、754年に鑑真が平城京へ。天平文化が花ひらく。
- 764〜770年藤原仲麻呂の乱。称徳天皇のもとで、僧の道鏡が力を持つ。天皇をめぐる混乱が続き、称徳天皇の死後、道鏡は失脚する。
- 784年 → 794年桓武天皇が、長岡京を経て平安京へ都を移す。平安時代へ。
4. ごちゃごちゃ整理
奈良時代は、「土地」「仏教」「政治の人物」が入り混じって見えます。3つに分けて整理します。
土地のしくみ
| きまり | 内容 | そのあと |
|---|---|---|
| 班田収授法 | 人びとに口分田(くぶんでん)を貸し、税を取る。6年に1度、田を割り当て直し、亡くなった人の田は国に返す | 田の不足などで、運用が難しくなっていく |
| 三世一身法723年 | 開墾した土地を、一定の期間、自分のものにしてよい | 期限が来ると国に返す(743年の詔は、意欲が下がり土地が荒れることがあったと説明) |
| 墾田永年私財法743年 | 開墾した土地を、ずっと自分のものにしてよい。ただし位による広さの上限、国司の許可などの条件がある | 私有地が広がり、荘園(しょうえん)制の出発点になる |
仏教
| 名前 | ひとこと |
|---|---|
| 国分寺 | 聖武天皇が、国ごとにつくらせた寺(741年の詔)。仏教の力で国を守るため |
| 東大寺 | 大仏のある寺。前身は大和国の国分寺とされ、全国の国分寺の中心(総国分寺)とされた |
| 行基 | 民衆に仏教を広め、橋や池をつくった僧。のちに大仏づくりに協力した |
| 鑑真 | 唐から来た高僧。日本の僧に、正式な戒律を伝えた |
政治の人物
| 人物 | ひとこと |
|---|---|
| 聖武天皇 | 災いが続くなか、仏教の力で国を守ろうとした天皇 |
| 長屋王 | 729年、藤原氏の力が強まるなかで、自害に追い込まれた(長屋王の変) |
| 藤原広嗣 | 740年、九州で聖武天皇に反乱を起こした(藤原広嗣の乱) |
| 藤原仲麻呂 | 藤原氏の実力者。764年に反乱を起こし、敗れた |
| 道鏡 | 称徳天皇に重く用いられた僧。天皇の死後、失脚した |
| 桓武天皇 | 784年に長岡京、794年に平安京へ都を移した天皇 |
5. もう少し知る
税は3つ:租・庸・調租は稲、庸は都での労役のかわりの布や米など、調は各地の特産物や布。庸と調は、地方から都まで人びとが自分たちで運びました。
平城京は「唐の都のまね」南北に走る朱雀大路を中心に、碁盤の目の道で区切られた都です。大仏のある東大寺は、都の東側にありました。
『万葉集』は、天皇から庶民までの歌約4500首がおさめられています。貴族だけでなく、地方の人びとや防人(さきもり)の歌も入っています。
疫病と政治は、つながっていた735〜737年の疫病では、当時政治の中心にいた藤原氏の四兄弟も亡くなりました。天皇や貴族が仏教にすがった背景のひとつです。
6. 1分で深掘り
もっと知りたいときは、こちらへ。
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7. 次の時代へ:なぜ平城京から平安京へ?
奈良時代の終わりは、貴族や寺の力が強くなり、天皇をめぐる混乱も続いた時代でした。称徳天皇のあとは、天智天皇の系統の光仁天皇が即位し、その子の桓武天皇が、政治を立て直そうとします。桓武天皇は、784年に長岡京、794年に平安京へ都を移しました。
都を移した理由は、ひとつに決まっているわけではなく、いくつかの説があります。ただ、奈良時代の「ほころび」を立て直すための新しい出発だった、と考えるとつかみやすくなります。この先は、平安時代です。
8. ここまで説明できれば、全体像はつかめています
- 710年、平城京に都を移した(唐の都をお手本にした)
- 班田収授法がゆらぎ、743年の墾田永年私財法で、開墾地を条件つきで持ち続けられるようになった
- 聖武天皇が、国分寺と大仏で、仏教の力で国を守ろうとした
- 唐に学び、鑑真が来日した
- 天平文化:『古事記』『日本書紀』『万葉集』、東大寺、正倉院
- 貴族の力争いが続き、桓武天皇が長岡京・平安京へ都を移した
奈良時代について、このくらい説明できれば全体像をつかめています。
9. 確認問題
名前 ________ /5点
- 710年、元明天皇が都を移した先はどこ?
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平城京
- 人びとに口分田を貸して税を取る、律令のしくみを何という?
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班田収授法
- 743年、開墾した土地を持ち続けてよいと定めた法律は?
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墾田永年私財法
- 仏教の力で国を守ろうと、国ごとにつくらせた寺を何という?
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国分寺
- 794年に桓武天皇が都を移した先はどこ?
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平安京
✂ 答え(切り取るか、折って隠して使いましょう)
- 平城京
- 班田収授法
- 墾田永年私財法
- 国分寺
- 平安京
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