豊臣秀吉と天下統一
豊臣秀吉と天下統一 まとめ
1. ひとことで言うと
1590年ごろに全国の大名を従えた。その後、朝鮮へ大軍を送った
信長の家臣だった羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)は、本能寺の変のあと、明智光秀を討ち、信長の家臣や一族との争いに勝って主導権をにぎりました。武力で戦うだけでなく、大名たちを従わせ、朝廷から関白の地位を得て、その権威のもとに全国の大名をまとめていきます。1590年ごろに全国の統一をほぼ終えると、1592年と1597年の二度、朝鮮に大軍を送りました。秀吉が1598年に亡くなると、豊臣政権の中の対立が表に出ていきます。
2. なぜ、信長の後継者のような立場に立てたのか
- 1582年:山崎の戦い本能寺の変を知った秀吉は、戦っていた中国地方の毛利氏と和睦し、急いで引き返して明智光秀を破る。
- 清洲会議信長の家臣たちが集まり、跡継ぎを信長の幼い孫(三法師)とすることなどを話し合う。秀吉は、その後の主導権をめぐって柴田勝家らと対立していく。
- 1583年:賤ヶ岳の戦い柴田勝家を破り、信長の家臣の中で最も有力な立場になる。この年、大坂城を築き始める。
- 1584年:小牧・長久手の戦い信長の子の織田信雄と徳川家康を相手に戦う。戦いでは決着がつかず、講和によって両者を従える形をつくった。
秀吉が主導権をにぎれたのは、光秀をいち早く討ったことに加え、信長の家臣や一族、周りの大名たちとの戦いと交渉を重ねたからでした。1分でわかる織田信長と天下統一本能寺の変までの信長の動き
3. 大名を従えるしくみ
4. 全国の統一へ
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1585年 | 四国の長宗我部氏を従える |
| 1587年 | 九州の島津氏を従える |
| 1590年 | 関東の北条氏を小田原で滅ぼし、東北の大名たちも従える |
こうして、秀吉は1590年ごろに全国の大名を従えました。ただし、大名たちはそれぞれの領国を治め続けており、今の国家のように、すべてを一つの政府が直接治めるしくみができたわけではありません。
5. 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)
全国を統一した秀吉は、明(中国)を従えることを目指し、その道すじにあたる朝鮮に大軍を送りました。大陸への軍事進出を目指した、大規模な戦争でした。
| 戦い | ようす |
|---|---|
| 文禄の役1592年〜 | 約15万の軍が朝鮮に渡り、都の漢城(いまのソウル)を占領して北へ進んだ。しかし、朝鮮の水軍や各地で立ち上がった人びとの抵抗、明の援軍によって押し返され、戦いは長引いた。明との間で講和の交渉が行われたが、まとまらなかった |
| 慶長の役1597年〜 | 再び大軍が送られ、朝鮮半島の南部を中心に激しい戦いが続いた。1598年に秀吉が亡くなると、日本の軍は引き上げた |
この戦争は、朝鮮では「壬辰倭乱」などとよばれ、日本・韓国・中国の研究者のあいだでは「壬辰戦争」という呼び方も使われています。
6. 秀吉の死と、そのあと
1598年、秀吉は亡くなりました。跡継ぎの秀頼はまだ幼く、政治は、徳川家康ら有力な大名の五大老と、石田三成ら実務を担う五奉行が支えることになりました。しかし、豊臣政権の中の対立はやがて表に出て、1600年の関ヶ原の合戦へとつながっていきます。1分でわかる関ヶ原の合戦なぜ戦い、何が変わったのか
7. まちがえやすいところ
- 秀吉は、将軍ではなく関白・太政大臣になった。征夷大将軍にはなっていない。
- 1590年に、今の国家のようなしくみが完成したのではない。大名はそれぞれの領国を治め続けた。
- 朝鮮出兵の目的を、一つの理由だけで決めつけない。さまざまな説がある。
- 朝鮮出兵は、秀吉の死で終わった。日本の軍は1598年に引き上げた。
8. 1分で深掘り
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