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元寇と鎌倉幕府
1268年〜13世紀末
ユーラシアに広がったモンゴルの軍が、二度にわたって九州北部に攻めてきました。この戦いは、幕府と武士の社会に何をもたらしたのでしょうか。
1分でわかる歴史鎌倉時代
元寇と鎌倉幕府 まとめ
1. ひとことで言うと
元の軍は二度攻めてきたが、御家人たちの戦いと守り、暴風雨などが重なって退いた。
しかし、戦いのあとに大きな課題が残った
しかし、戦いのあとに大きな課題が残った
13世紀、モンゴル帝国はユーラシア大陸の広い範囲を支配し、中国では国号を元と定めました。元は日本にも従うよう求め、1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)の二度、九州北部に軍を送ります。幕府は御家人を動員してこれを防ぎましたが、守りの負担は長く続き、戦いのあとの恩賞も十分には行きわたりませんでした。「元寇」は、のちの時代の呼び名で、「蒙古襲来」ともよばれます。
2. なぜ、元は日本に攻めてきたのか
元の皇帝フビライ(クビライ)は、朝鮮半島の高麗を従えたあと、日本にも使いを送り、国書で通交と服属を求めました。執権の北条時宗を中心とする幕府は、これに応じませんでした。
元にとっては、南の宋との戦いを進めるうえで、日本と宋との結びつきを断ちたいというねらいもあったとみられています。高麗は元に従わされ、船や兵を出す大きな負担を負いました。
3. 二度の戦い
| 戦い | ようす | 元の軍が退いたわけ |
|---|---|---|
| 文永の役1274年 | 元と高麗の軍が対馬・壱岐をおそい、博多湾に上陸。集団で戦う戦法や、「てつはう」とよばれる火薬の武器に、御家人たちは苦しんだ | 短い戦いのあと引き上げた。暴風雨にあったという話もあるが、季節や記録から疑問も出されており、はじめから長く戦うつもりがなかった、損害が大きかったなど、いくつかの見方がある |
| 弘安の役1281年 | 朝鮮半島からの軍と、中国南部からの大軍の二手で攻めてきた。御家人たちは防塁で上陸を防ぎ、海上でも戦った | 約2か月のあいだ上陸を阻まれていたところに、大きな暴風雨がおそい、船の多くが沈んだ |
「神風」だけで勝ったのではない弘安の役の暴風雨は、たしかに大きな打撃になりました。しかし、それまでに御家人たちが上陸を許さず戦い続けていたこと、防塁などの備え、元の側の寄せ集めの軍や長い航海による弱りなど、いくつもの要因が重なっていました。
4. 守りを固める
| 備え | 内容 |
|---|---|
| 異国警固番役 | 九州などの御家人に、北九州の沿岸を交代で守らせた。弘安の役のあとも長く続いた |
| 防塁 | 文永の役のあと、博多湾の沿岸に築いた石の壁。「元寇防塁」として、今も一部が残る |
幕府は、御家人ではない九州の武士にも戦いへの参加を求めるなど、守りのために支配の範囲を広げていきました。
5. 戦いのあとに残ったもの
恩賞の土地が足りない元寇は、攻めてきた敵を追い返す戦いでした。勝っても新しく手に入る土地はなく、幕府は、戦った御家人たちに十分な恩賞を与えることができませんでした。
へえ恩賞を求めて、鎌倉へ肥後国(いまの熊本県)の御家人・竹崎季長は、自分の手がらを認めてもらうため、はるばる鎌倉まで出向いて訴えました。その姿は、『蒙古襲来絵詞』に描かれています。
続く負担と、北条氏への力の集中三度目の攻撃に備えて、守りの負担は続きました。その一方で、戦いの中で幕府の中心にいた北条氏の本家の力がさらに強まっていきます。
こうした変化は、幕府がゆらぐ背景のひとつになりました。ただし、元寇だけが幕府滅亡の原因だったのではありません。1分でわかる鎌倉幕府はなぜ滅びた?いくつもの原因が、どう重なったのか
6. まちがえやすいところ
- 文永の役が先(1274年)、弘安の役があと(1281年)。
- 「神風」だけで勝ったのではない。御家人の戦い、防塁、元の側の事情なども重なった。
- 元の軍には、高麗や中国南部の人びとも多く加わっていた。モンゴル人だけの軍ではない。
- 元寇の恩賞問題だけで、幕府が滅びたのではない。ほかにもいくつもの背景があった。
7. 1分で深掘り
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