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源頼朝と鎌倉幕府
1180年〜1199年
伊豆に流されていた頼朝は、どうやって鎌倉を拠点に武士の政権をつくったのか。10年あまりをかけて形になった、その道すじを追います。
1分でわかる歴史鎌倉時代
源頼朝と鎌倉幕府 まとめ
1. ひとことで言うと
頼朝は、京都に上らず鎌倉にとどまり、
東国の武士たちの土地を守る「武士のための政権」を少しずつ形にした
東国の武士たちの土地を守る「武士のための政権」を少しずつ形にした
平治の乱に敗れた源義朝の子・頼朝は、少年のころから伊豆で流人として暮らしていました。1180年に兵を挙げると、東国の武士たちを味方につけて鎌倉を拠点とします。頼朝は、平氏との戦いを弟の源範頼・義経らに任せ、自らは鎌倉で武士たちをまとめ、しくみを整えることに力を注ぎました。こうして、朝廷とは別の、武士の政権が形づくられていきました。1分でわかる院政から平氏の台頭へ平治の乱から、源平の争乱まで
2. なぜ、京都ではなく鎌倉だったのか
源氏とゆかりのある土地頼朝の祖先の源頼義が鶴岡八幡宮のもとになる社をまつるなど、鎌倉は源氏とゆかりのある土地でした。
守りやすい地形三方を山に、一方を海に囲まれ、敵に攻められにくい地形でした。
東国の武士の中心に近い頼朝を支えたのは、東国の武士たちでした。京都から離れた東国にいることで、武士たちの願いに応えながら、朝廷とも距離をとって向き合うことができました。
3. 幕府ができるまでの道すじ
| 年 | できごと |
|---|---|
| 1180年 | 伊豆で兵を挙げる。石橋山の戦いで敗れるが、房総半島に逃れて勢いを取りもどし、鎌倉に入る。御家人をまとめる侍所を置く |
| 1183年 | 朝廷から、東国の支配を認められる |
| 1184年 | 政治や財政を扱う公文所(のちの政所)、裁判を扱う問注所を置く |
| 1185年 | 壇ノ浦の戦いで平氏が滅びる。守護・地頭を置くことを、朝廷に認めさせる |
| 1189年 | 弟の義経をかくまった奥州藤原氏を滅ぼし、東北も支配下に置く |
| 1192年 | 後白河法皇の死後、征夷大将軍に任じられる |
どの段階で「幕府ができた」と見るかによって、成立の年は1180年、1183年、1185年、1192年などに分かれます。大切なのは、10年あまりをかけて、しくみが一つずつ整えられていったことです。
4. 頼朝がつくったもの
| しくみ | ねらい |
|---|---|
| 御家人 | 頼朝に仕えることを誓った武士。頼朝と一人ひとりが主従の関係で結ばれた |
| 守護 | 国ごとに置き、軍事や治安を担わせた |
| 地頭 | 荘園や公領ごとに置き、土地の管理や年貢の取り立てにかかわらせた |
| 役所 | 侍所・政所・問注所で、武士の統率、政治・財政、裁判を分担した |
5. 朝廷とは、どんな関係だった?
頼朝は、朝廷を倒そうとしたのではありません。朝廷から官職や権限を認めてもらうことで、自分の立場を正式なものにしていきました。一方で、朝廷を動かす後白河法皇とは、駆け引きも続きました。義経が頼朝の許しを得ずに朝廷から官職を受け、やがて兄弟が対立すると、頼朝は義経を追う名目で、守護・地頭を置く権限を朝廷に認めさせています。
へえ「征夷大将軍」は、朝廷が選んだ名前公家の日記の記録によると、頼朝が望んだのは「大将軍」の地位で、朝廷がいくつかの候補の中から、坂上田村麻呂の例にならって「征夷大将軍」を選んだと伝えられています。のちに、この地位が武士の政権の長を表すものになっていきました。
6. 頼朝の死後
1199年、頼朝は亡くなりました。まだ若い子の頼家が跡を継ぐと、有力な御家人たちが話し合いで政治を進めるようになり、その中で頼朝の妻・北条政子の実家である北条氏が力をのばしていきます。
7. まちがえやすいところ
- 1192年に、突然幕府が生まれたのではない。1180年から段階的に形になった。
- 頼朝は、平氏と戦う軍の先頭に立ち続けたのではない。戦いは範頼・義経らに任せ、鎌倉で政権づくりを進めた。
- 幕府は、朝廷を倒してできたのではない。朝廷から権限を認めさせながら、並び立つ形で成り立った。
- 守護は国ごと、地頭は荘園・公領ごと。置かれる単位がちがう。
8. 1分で深掘り
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