藤原氏と摂関政治

1分でわかる

藤原氏と摂関政治

9世紀後半〜11世紀
藤原氏は、天皇にならなかったのに、なぜ大きな力をもてたのか。そのしくみと、道長・頼通の時代を見ていきます。
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1分でわかる歴史平安時代

藤原氏と摂関政治 まとめ

1. ひとことで言うと

娘を天皇のきさきにし、生まれた皇子が天皇になれば、
その祖父として天皇を支え、政治を動かすことができた

藤原氏は、天皇に取って代わろうとしたのではありません。天皇の母方の親族(外戚)という立場を得て、幼い天皇の代わりに政治を行う摂政、成長した天皇を助ける関白という地位につきました。こうして行われた政治を、摂政・関白の頭文字をとって摂関政治とよびます。

2. 外戚になるしくみ

  1. 娘を、天皇のきさきに藤原氏の娘が、天皇や皇太子と結婚する。
  2. 皇子が生まれる当時の貴族の子は、母の実家で育てられることが多かった。
  3. 皇子が天皇に幼くして即位することもある。
  4. 祖父として支える天皇の母方の祖父やおじとして、摂政・関白になる。
地位役割
摂政天皇が幼いときや病気のとき、代わりに政治を行う
関白成長した天皇を助け、天皇に届く政治の報告に先に目を通して、意見を述べる

3. 摂関政治ができるまで

年できごと
858年9歳の清和天皇が即位し、祖父の藤原良房が政治を行う。866年、天皇の一族以外で初めて、正式に摂政となる
887年藤原基経が、宇多天皇から関白に任じられる(関白の始まり)
901年宇多天皇に重く用いられた菅原道真が、大宰府へ移される
969年有力な貴族の源高明が都を追われる(安和の変)。このあと、摂政・関白がほぼいつも置かれるようになる

藤原氏が、ほかの氏族の有力者を次々に退けていったと説明されることがあります。ただ、それぞれの事件には、天皇の後継ぎ争いや貴族どうしの対立など、別々の事情がありました。また、10世紀前半には、摂政・関白を置かずに天皇が自ら政治を行った時期もあります。

4. 藤原道長と頼通

藤原道長:娘たちを次々に、天皇のきさきに道長は、娘の彰子を一条天皇のきさきにしたのをはじめ、娘たちを次々と天皇のきさきにしました。1016年には孫の後一条天皇の摂政となり、翌年にはその地位を子の頼通にゆずります。そのあとも、天皇の祖父として大きな影響力をもち続けました。
へえ「この世をば わが世とぞ思ふ」1018年、三人目の娘が天皇のきさきになった祝いの席で、道長は、満月のように欠けたところがないと、自分の満ち足りた気持ちを歌に詠んだと、貴族の日記に書き残されています。
藤原頼通:約50年、摂政・関白に頼通は、およそ50年にわたって摂政・関白をつとめました。宇治(京都府宇治市)に建てた平等院鳳凰堂(1053年)は、この時代を代表する建物です。しかし、頼通の娘には天皇となる皇子が生まれませんでした。1分でわかる国風文化と平安のくらし平等院鳳凰堂と、極楽浄土を願う信仰

5. 藤原氏は、独裁していたのか

摂関政治は、藤原氏がひとりで何でも決める政治ではありませんでした。

天皇と朝廷のしくみは続いていた政治は、天皇を中心とする朝廷のしくみのもとで行われました。重要なことは、公卿とよばれる上級の貴族たちが会議で意見を出し合い、それを参考に天皇や摂政・関白が決めました。
天皇との信頼関係が大切だった成長した天皇と関白は、前もって話し合って政治を進めるのが原則とされました。一条天皇と道長のように、よい関係が築かれた時期もあります。
力を支えたもの地方の国司(受領)たちは、任命を願って藤原氏に仕え、多くの贈り物を届けました。こうした結びつきも、藤原氏の力を支えたとされます。

6. 摂関政治のあとは

1068年、藤原氏を母にもたない後三条天皇が即位し、自ら政治を進めます。やがて、天皇の位をゆずった上皇が政治を動かす院政が始まりました。ただし、藤原氏の摂関家がなくなったわけではなく、摂政・関白は、そのあとも長く置かれ続けました。

7. まちがえやすいところ

  • 摂政と関白を逆にしない。摂政は天皇が幼いとき、関白は天皇が成長してから。
  • 藤原道長は、関白にはなっていない。摂政にはなったが、すぐに頼通にゆずった。
  • 藤原氏が、天皇に代わって天皇になろうとしたのではない。天皇の親族として、天皇を支える形で力をもった。
  • 摂関政治の終わりは、藤原氏の終わりではない。摂関家は、そのあとも続いた。

8. 1分で深掘り

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関連テーマ:藤原良房/菅原道真/藤原道長/平等院鳳凰堂

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