邪馬台国と卑弥呼

1分でわかる

邪馬台国と卑弥呼

3世紀(弥生時代の終わりごろ)
中国の歴史書に記された、倭の女王とその国。とても有名なのに、場所はまだ確定していません。
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1分でわかる歴史弥生時代

邪馬台国と卑弥呼 まとめ

1. ひとことで言うと

中国の歴史書に記された、3世紀の倭の女王と、その都の国。
有名なのに、場所さえ確定していない

邪馬台国と卑弥呼のことは、日本の記録ではなく、中国の歴史書『三国志』の中の、いわゆる「魏志倭人伝」に書かれています。当時の日本列島には、自分たちで書いた文字の記録がほとんどないためです。書かれている内容は、当時の倭(日本列島の人びとや国々)の様子を知る、とても重要な手がかりです。一方で、邪馬台国がどこにあったのかは、今も分かっていません。

2. 手がかりは、中国の歴史書

中国の歴史書には、弥生時代の倭について、いくつかの記事が残っています。

歴史書書かれている時代おもな内容
『漢書』地理志紀元前1世紀ごろ倭は百余りの国に分かれ、定期的に使いを送ってきた
『後漢書』東夷伝1〜2世紀57年、奴国の王が使いを送り、皇帝から印を授かった。2世紀後半には倭で大きな争いがあった
魏志倭人伝3世紀女王卑弥呼が、邪馬台国を中心に30ほどの国をまとめ、魏に使いを送った
へえ57年の印は、実際に見つかっている江戸時代の1784年、福岡県の志賀島で、「漢委奴国王」と刻まれた金印が見つかりました。57年に奴国の王が授かった印と考えられ、国宝として福岡市博物館にあります。ただし、これは卑弥呼の時代より200年ほど前の話です。

3. 魏志倭人伝に書かれた卑弥呼

争いのあと、女王に立てられた倭では、長く争いが続いたあと、国々が共に卑弥呼を女王に立てたと書かれています。
「鬼道」で人びとをまとめた卑弥呼は、まじないや祭り(鬼道)によって人びとを従えたとされます。人前にはほとんど姿を見せず、弟が政治を助けたと記されています。
魏と外交をした239年(238年とする見方もあります)、卑弥呼は魏に使いを送り、「親魏倭王」の称号や金印、銅鏡などを授かったと書かれています。中国の大国から認められることは、倭の中での立場を強めることにもつながったと考えられています。
卑弥呼のあと卑弥呼が亡くなると大きな墓がつくられ、そのあと男の王が立ったものの国はおさまらず、卑弥呼の一族の女性、壱与(台与とも)が王になっておさまった、と記されています。

4. 邪馬台国は、どこにあった?

魏志倭人伝には、朝鮮半島から邪馬台国までの道のりが書かれています。しかし、その方角や距離をそのまま読むと、日本列島の外の海に出てしまうなど、読み方がいくつにも分かれます。

おもな説は、九州説と畿内説九州北部にあったとする説と、奈良県を中心とする畿内にあったとする説が、特によく知られています。道のりの記述をどう読むか、遺跡や古墳の年代をどう見るかによって、考え方が分かれています。
決め手は、まだない奈良県桜井市の纒向遺跡など、3世紀ごろの重要な遺跡も調べられていますが、「ここが邪馬台国」と確定できる証拠は見つかっていません。

5. 場所が分からなくても、なぜ大切なのか

魏志倭人伝には、3世紀の倭の人びとの暮らしや社会についても書かれています。身分の違い、税を納めるしくみ、国々の市(いち)、国と国の関係、中国との外交などです。外国の人の目で書かれた記録なので、聞いた話や誤解が入っている可能性もあります。それでも、文字の記録がほとんどない時代に、倭の社会がどう見えていたかを知ることができる、数少ない手がかりです。

6. まちがえやすいところ

  • 「魏志倭人伝」という1冊の本があるわけではない。中国の歴史書『三国志』の一部を、こうよんでいる。
  • 奴国の金印と、卑弥呼の金印はちがう。見つかっている「漢委奴国王」の金印は57年のもの。卑弥呼が授かった金印は見つかっていない。
  • 邪馬台国の場所は、確定していない。九州説・畿内説などがあり、どれかが正解と決まっているわけではない。
  • 邪馬台国が、そのままヤマト政権になったとは決まっていない。つながりがあるかどうかも、見方が分かれている。
  • 卑弥呼の墓も、分かっていない。奈良県の箸墓古墳をその墓とする見方もあるが、確かめられてはいない。

7. 1分で深掘り

邪馬台国のあと、広い地域をまとめる勢力がどのように現れたのかを知りたいときは、こちらへ。

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関連テーマ:金印「漢委奴国王」/纒向遺跡/魏志倭人伝

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