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小さなクニからヤマト政権へ
弥生時代の終わり 〜 古墳時代のはじめ(3世紀ごろ)
各地の小さなクニの時代から、広い地域をまとめる勢力が現れ、巨大な古墳の時代へ。時代は、ある日突然切り替わったわけではありません。
1分でわかる歴史弥生時代 → 古墳時代
小さなクニからヤマト政権へ まとめ
1. ひとことで言うと
争いとつながりをくり返しながら、クニはより広いまとまりへ。
その先に、巨大な古墳とヤマト政権の時代があった
その先に、巨大な古墳とヤマト政権の時代があった
弥生時代の日本列島には、各地に小さなクニがありました。クニどうしは争い、結びつき、鉄や貴重な品を求めて遠くとつながるなかで、より広い地域をまとめる勢力が生まれていきます。3世紀ごろになると、前方後円墳という巨大な墓が各地につくられはじめ、奈良盆地を中心とするヤマト政権の時代へと移っていきました。
2. 流れでたどる
- ムラ稲作とともに、まとめ役のいるムラが各地に育つ。
- クニいくつものムラがまとまり、小さなクニになる。57年には、奴国の王が中国に使いを送ったと記される。
- 争いと連合2世紀後半ごろ、倭で大きな争いがあったと中国の史書は記す。
- 広いまとまり3世紀、女王卑弥呼が、邪馬台国を中心に30ほどの国をまとめたと記される。
- 大きな墓各地の有力者が、地域ごとの形をもつ大きな墓(墳丘墓)をつくる。
- 前方後円墳3世紀ごろ、奈良盆地をはじめ各地に、共通の形をもつ巨大な古墳が現れる。
- ヤマト政権へ奈良盆地を中心とする勢力が、各地の有力者と結びつきながら、広い範囲に影響を及ぼしていく。
3. なぜ、広いまとまりが生まれたのか
理由はひとつではなく、いくつもの背景が重なったと考えられています。
鉄や貴重な品を手に入れる鉄は、道具にも武器にも欠かせません。大陸・朝鮮半島から鉄などを手に入れる道を、どの勢力がおさえるかは、大きな意味をもちました。
争いと、協力クニどうしの争いがある一方で、争いを収めるために手を結ぶこともありました。卑弥呼が女王に立てられたのも、争いのあとだったと記されています。1分でわかる邪馬台国と卑弥呼中国の史書に記された、3世紀の倭
祭りと、権威共通の祭りや、大きな墓づくりは、人びとをまとめる力にもなったと考えられています。中国の皇帝から称号を授かることも、倭の中での立場を強める材料になりました。
4. 墓が語る変化
弥生の終わり:地域ごとの大きな墓弥生時代の終わりごろには、各地の有力者が、盛り土をした大きな墓(墳丘墓)をつくりました。山陰の四隅突出型墳丘墓、岡山県の楯築墳丘墓など、地域ごとに形の違いがありました。
古墳のはじめ:共通の形が広がる3世紀ごろになると、前方後円墳という共通の形の古墳が、奈良盆地をはじめ各地につくられます。同じ形の墓が広い範囲に広がることは、各地の有力者どうしのつながりを示すと考えられています。
へえ文字のかわりに、墓から読むこの時代、日本列島側の文字の記録はほとんどありません。墓の形や大きさ、納められた品の変化から、人びとのまとまり方の変化を読み取っているのです。
5. 邪馬台国とヤマト政権は、つながっているの?
名前が似ていることもあり、「邪馬台国がそのままヤマト政権になった」と考えたくなります。しかし、邪馬台国の場所が確定していないため、この関係ははっきりしていません。畿内に邪馬台国があったとすれば、ヤマト政権へつながったとみる考えがあります。九州にあったとすれば、別の勢力だったとみる考えもあります。今のところ、どちらとも決められていません。
6. まちがえやすいところ
- 「弥生→古墳」は、ある年に一斉に切り替わったわけではない。区切りの年代にも幅があり、地域によって変化の時期も違った。
- 邪馬台国=ヤマト政権、とは決まっていない。つながりについては、見方が分かれている。
- ヤマト政権は、はじめから全国を支配していたわけではない。各地の有力者と結びつきながら、影響を広げていったと考えられている。
- 広いまとまりの理由は、ひとつではない。鉄や交易、争いと協力、祭りや権威など、いくつもの背景が重なった。
7. 次の時代へ
ここから先は、古墳時代です。巨大な古墳、大王(のちの天皇)と豪族、大陸から来た人びとと技術が、次の時代の主役になっていきます。
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